*lovdrection* 



    ねえ尚貴、何か欲しいもの、ない?」

 リビングから聞こえてきた声に、紅はふいとそちらに視線を向けた。
 システムキッチンから続く居間で、漣が尚貴の前で首を傾げている。紅は彼らにお茶を淹れつつも、その会話に耳を傾けることにした。

「なんだ、藪から棒に」
「ほら、部長になったでしょ。それのお祝いも兼ねて。最近全然飲みに行ったりもしてないじゃん、だからさ、何かプレゼントでも出来たらなーって思ったんだけど」
「いいぜ、別にそんなに気ィ使わなくても」
「うーん……でもね。そうやってお祝いすることで、少なからず俺も頑張ろうって気になるからさ。つまるところ、俺のためでもあるワケです」

 その言葉の終わりを待たず、尚貴が自分のためかよ、と笑いながらぺしっと漣の額を叩いた。漣は歯を見せて悪戯っぽく笑う。
 そのやり取りを聞いて、ああ、そういえばそうだったなと思った。
 少し前に尚貴は目出度く出世した訳で。当時、少しバタバタしていたから失念していたけれど、自分の近しい人間、ことに恋人と言える人間がステップアップしたのならば、祝ってやりたいのは自分も同じだ。
 けれど。
 どうせなら、少しでも驚かせたい。くだらない、子供かと言われようと誰かを祝った経験自体が少ない紅にとっては大事なことだ。
 そしてその為には、漣のように本人に面と向かって「何が欲しい?」なんぞとは訊けないのだ。
 ゆえに    、漣が話題を出している今、黙って聞いておくに限る。
 心の中、うんと頷いた紅はお茶の用意を出来るだけ長引かせながら耳を澄ませた。

「あんまり高いものは無理だけどさ。何か欲しいものがあるとか、みんなでご飯食べに行くとか、何かない? 出来る範囲で叶えてあげるよ」
「んなこと言われてもなァ。すぐにパッと思い付くもんじゃねぇし」
「じゃあ、今度までに考えておいてよ。メールでもちょうだい」

 ええ、それは困る、と紅は反射的にリビングの向こうの漣へ向けて視線を送った。当然のごとく尚貴の向こうにいる漣には見えないだろうけれども。
 ところが、念が通じたのか漣はすぐにその言葉を取り消す。

「あっ、ダメだ、俺今携帯修理に出してるもん。明後日まで戻って来ないや」
「あ? なんかあったのか?」
「こないだお風呂掃除してて落としちゃったんだ。もうね、一発! 分かってたけど携帯ってヤワだよね」
「んじゃ次は防水にしろよ。最近いくつか出てるだろ?」
「冗談! 新しいのなんてまだ買わないよ。いくらかかると思ってんのさ、修理だけならポイントで済むのに勿体ない」

 ってことでやっぱり今考えてよ、と漣は尚貴に答えを迫る。
 一度肩を竦めて視線を明後日の方向に投げつつ、尚貴は適当の極みとも言える答えを弾き出した。ソファに体重を思い切り預けて笑みを浮かべる。

「そんじゃ島田、一発殴りてえな」

 きょと、と漣は瞬きを繰り返しながら首を傾げた。

「島田、ってあの? 尚貴と仲の悪かった?」
「仲が悪いとかいうレベルじゃねーだろ、俺いっぺんドテっ腹刺されてんだぞ。あん時ゃブッ倒れてそれどころじゃなかったしよ。復帰すりゃ当然だけど島田はクビになってるしよ。一発ブン殴りでもしねぇと治まるもんも治まんねえの」
「なに言ってんのー」

 アハハと笑い飛ばす漣と、同じように笑って済ませる尚貴。

「…………ふむ。なるほどなー」

 カップをお盆に載せたまま、紅はひとり、ボソリと呟いた。






 ちゃっかり片岡家で夕食をかっ食らい、七時を過ぎた頃、漣は暇を申し出た。夕食は食べていく癖に、仕事を明日に控えている場合はきちんと自宅に帰るという妙ちきりんな律義さが彼らしい。
 玄関口で靴を履きながら尚貴の顔を見上げて、ニコッと笑った。

「じゃあ、帰るね。ごちそうさま」
「おう。気ィつけて帰れよ」
「大丈夫。あ、それと」

 ちょいちょいと手招きされ、尚貴は求められるまま漣に耳を寄せる。内緒話でもするように、手でガードして漣が耳打ちをしてきた。

「再来週、バレンタインでしょ? 夜、ちょっと脩人君を借りたいんだけど」
「ああ……、そういやそうだったな。夜って、昼間はどうすんだよ?」
「夜の方がロマンチックじゃない。なんてね〜」
「……スケベになりやがって」

 意図するところを揶揄しつつ呆れたように息を吐き出せば、漣が慌てたように手を振った。

「ちょっ、そういう意味じゃないって! 大体俺と脩人君はまだそういう最後の一線越えてないし! どうしてそうなるのさ、……すぐにそういう考えが浮かぶ尚貴の方こそ、スケベなんじゃないの」

 じとんとした視線を向けられるも、尚貴はそんなものでは狼狽えない。それどころか、両手を組み、胸を反らせて偉そうな鼻息まで吐き出す始末だ。
 あまつさえはとんでもない一言をぶちかます。

「スケベで結構、男のスケベは正義なんだよ」
「何それ、自分ばっかりズルい」
「うるせぇ、もう帰れ」
「言われなくても帰ります! 尚貴のバカッ! ふんだ、バレンタインに紅からチョコもらえずに終わればいいんだっ! 呪詛かけてやる呪詛!!」

 思い切り脹れっ面を浮かべ、最後にとんでもない言葉を吐いて漣が出て行った。乱暴に扉の閉まる音が響き、漸く我に帰った尚貴が反撃するも既に遅く。

「……ってロクでもない呪詛かけんじゃねーよ!!」

 実は結構期待しているのだが、本当に貰えなかったらどうしてくれる。
 一人憤る尚貴の横を擦り抜け、手洗いに行っていた脩人がジャケットを引っ掛けながら慌てて漣を追って行った。送って行くつもりだったのが、用を足している僅かな間に帰られてしまったというわけだ。

「あっ、漣さん待ってください、俺送って行きますからっ……」

 その背中をやれやれと見送り、リビングへ取って返すと紅がいた。
 いつものように、読書をしつつコーヒーを飲んでいる。

    ……」

 最後の辺りは大きな声で話していたから聞こえていない筈はないだろうが、紅は何を言うでもなく、無言のまま。
 こうなると、なんだか自分から話しかけるのも照れ臭いと言うか。催促するのもなんだかなぁ、といった具合だ。ゆえに、仕方がないのでそのまま放置するのがべストだろう。

「…………」

 なんとなく気まずい雰囲気の中、尚貴はテレビの前に据えてあるソファに腰掛ける。
 バレンタインまでは    あと二週間だ。






 ところが。
 尚貴が紅について異変を感じたのは、その一週間後だった。
 打ち合わせにてタクシーで移動している途中、ふと、紅の姿を見かけたのだ。あ、と思う間もなく過ぎ去ってしまったものの、確かにあの姿は彼で間違いない。なにせ、着ていた服も持っていた鞄も同じものだし、何より過ぎ去る瞬間に見えた顔が。
 だが、時間はお昼少し前のこと。紅は、自分が出社するのと同じ頃にマンションを出て行った。つまり、その時間は研究室にいる筈、いて然るべきの時間なのだ。
 元々出歩くことが嫌いな彼だ。一人でぶらぶらと買い物、ということはないだろう。研究所を早く切り上げて帰る途中なのかとも思ったが、その日の夕方、帰宅時間が自分とかち合ったところを見るとそうでもないようで。
 その違和感に気付いた時、胸の中に妙なシグナルが響いた。
 あるいは、その時紅に何気なく訊いていれば良かったのかもしれないけれど。
 次の日もその次の日も、紅は毎朝同じ時間にマンションを出て行く。そうして、気付けばいつしか金曜日になっていた。

    ……」

 自分のデスクでパソコンのキーを叩きながら、尚貴は不意に額を抑えた。
     駄目だ。
 気になって、仕方がない。
 日一日と過ぎる度に、もやもやとした気持ちが大きくなってきて。
 休憩を装って席を立つと、廊下に出る。窓際まで寄り行って、携帯電話を取り出した。アドレスから呼び出すのは無論、慣れた番号。
 しかし。
 聞こえてきたのは、「おかけになった番号は、現在、電波の届かないところにいるか……」云々といった例のアナウンス。

「は?」

 思わず、液晶画面で発信先を確認してしまった。
 間違いなく、紅にかけている。

「アイツの研究室ってそんなに電波悪かったっけ……?」

 そんな話を聞いたことも、今までそんな様子もなかった。第一、なまじ電波が悪かったとしても圏外になるほどではないと思う。
 ならば、と研究所の固定電話にかけることにした。
 そう、悩むならばもう訊いてしまおう。

    はい、今関研究室です』

 聞こえてきたのは、現在紅が師事している、というか彼の雇い主とも言える今関教授だった。

「ああ、片岡です。どうも」
『おや、こんにちは。どうかしたんですか?』
「紅います? ちょいと話がありまして」

 返ってきたのは、ほんの少しの沈黙だった。

『……紅君、ですか?』
「ええ、そうですけど……?」
『紅君は、ここ二週間ほど午後しか来ていませんよ? 今日ももうそろそろだと思いますが……』

     なんだって?
 尚貴は信じられない思いで、今関の言葉を反芻した。
 紅はここ二週間ほど、午後しか来所していないと彼は確かに言っていた。けれども、紅は毎朝自分と同じ時間にマンションを出ていたはず。しかも、「今日も大学だから」と言って。

「……い、今、紅はどこに?」
『えぇと……それは聞いていませんねぇ。お役に立てず、申し訳ありません』
「い、いえ……」

 正直、頭が混乱していてそれから自分が何を告げたのかもよく覚えていない。
 ただ、自分から電話があったことは紅には言わないでくれ    、と頼んだ気がする。
 通話を終えた後、尚貴は思い切り嘆息した。

「……どうした、もんかなぁ……」






 昼時になっても、当然の如く尚貴の心は晴れなかった。
 いつも昼食を採るカフェで、携帯電話を見詰めたまま思案に耽っている。とうに食事は冷めていたが、なかなか食を進める気にはなれない。
 紅に電話をかけようとして、やめる。それの繰り返しだ。

    紅にも何か事情があるんじゃないの」

 ふと、かけられた声に頭上を仰げば、そこに立っていたのは漣だった。
 慣れたように尚貴の向かいに腰を降ろして、折良くやって来たウエイトレスにランチをオーダーする。水で喉を潤してから尚貴に視線を戻し、首を傾げた。

「どうかしたの? 紅の携帯番号見てなんか考えてるみたいだったから、紅絡みで問題でもあったのかなって思ったんだけど」
「んん? ……ああ、まぁな」
「……喧嘩でもした?」

 顔を覗き込んで来る漣。その瞳は、本当に自分を心配してくれているのが分かる。
 付き合いが長いだけに、敏感に異変を感じ取るようで、それがありがたくもあり、放っておいてほしいと思う時もあり。今回はどちらかと言えば前者だったせいか、気持ちがささくれ立つことも無かった。
 携帯電話を手放すこともないままに、気の無い声を洩らす。

「……喧嘩じゃ、ねえんだけどな」
「じゃあ……」

 どうしたの、と漣が問うてくるのも待たず、バッサリと告げる。

「浮気」
「浮気って……    したの!? 尚貴が!? サイテー」

 テーブルを叩きそうな勢いで素っ頓狂な声を上げた上に汚いものでも見るような眼差しを向けられ、尚貴はひくりと口の端を引き攣らせた。

「なんでそうなんだよ。俺じゃねえ」
「じゃあ紅が? 浮気? されちゃったの尚貴? ……それはご愁」
「ぶつぞ」

 くわっと歯を剥いて威嚇すれば、漣は悪戯っぽさを残しながらも誤魔化すように笑った。ランチが到着するなり、食に逃げる。
 それから暫し沈黙が続いたが、粗方食べ進めた頃、再び件の話題に触れてきた。

「さっきの話だけどさ。……浮気って、本当に?」
「知るかよ」
「知るかって、だって……ねえ、本人に聞いてみたの?」
「聞くワケねえだろ。どうやって聞けって言うんだよ」

 若干声を尖らせながら、尚貴はようやっとフォークを取り上げた。
 正直な話、心の中は荒れている。自分でも最近気づいたことながら、一度妻を失っているだけに、愛する存在に対しては思いの外、貪欲のようだ。
 本当に浮気されたかどうかも分からないのに、考えただけで気持ちが悪くて仕方がない。
 せっかく進めたフォークもすぐに止めてしまい、額を押さえて深く息を吐いた。

「……じゃあさ、俺が……聞いてみようか?」
「余計なことすんな」
「……ごめん」

 尚貴の深刻な気持ちに気付いたのか、漣は先ほどのようにからかってくる事もなくなり。
 再び、沈黙が支配する。

「っだぁ〜もう、笑えねぇ〜!! 男にとって一年に一度の見栄っ張りイベントを控えてのこの体たらく!? 漣! テメーがこないだあんなくだらねえ呪詛かけっからだ!!」
「ちょっ、あのことは謝るけどさ、なんで俺のせいなの!!」

 そう食ってかかりながらも、漣はふと、目元を緩ませた。
 そんな冗談を言う余裕があるのなら    、と思ったのだろう。

「もし、明日本当にチョコ貰えなかったら俺があげるから元気出してよ」
「いらねーよ、オマエのなんか」
「俺なんかって何さ!? もっかい呪詛かけるよ!?」
「やめろよバカッ」

 漣に胸倉を掴まれ、抵抗すると自然と上がる声。
 結局、二人して店員に「もう少しお静かにお願い致します」と注意されるまで忌憚ない、且つ不毛な言い争いは続いたのだった。






    紅、まだ寝ねえのか?」

 そろそろ日付も変わろうかと言う頃、お持ち帰りした仕事も片付けて、尚貴は立ち上がった。
 向かいのソファでは、いつものように紅が何やら意味不明な本を読んでいる。紅は尚貴の問いにちらりと視線を上げたものの、すぐに本へと意識を戻してしまったようだった。

「うん。もう少ししてから」

 その声音はいつもと変わらない筈なのだが、尚貴の心境が沈んでいるせいか、どことなくつっけんどんに感じてしまう。
 結局、今日帰って来てから時間があったにも関わらず、何一つ彼に訊けないでいた。逃げるように仕事に打ち込み、気が付けばこんな時間になってしまっていた訳で。
 色々なことを考えながら視線を外せずにいると、紅がこちらを見遣った。

「……尚貴? どうかしたの?」
「え? あ、いや、」

 頭を振り、パソコンを閉じて立ち上がった。立春は過ぎたとは言え、まだまだ夜は寒い。風呂で温まった身体もとうに冷め、疲れているにも関らず、このまますぐには眠れないだろうなとぼんやりと思う。
 しかし、ここにいても今の自分が心休まることはないだろう。それこそ、延々と余計なことを考えるだけに終わりそうで。
 眠れなくても布団に入っていればそのうちなんとかなるだろう、と部屋に戻ることにした。

「俺はもう寝るから。オマエも、あんま無理すんなよ」

 こつんと指先で白銀の髪を推し遣れば、見上げてきた紅が少しだけ笑った。

「うん。分かった。おやすみ」

 こう言う表情は、今までと何ら変わらない。
 やはり    、思い過ごしなのだろうか。
 どんなに考えても考えても分からないまま、尚貴はいつしか眠りに落ちていく。
 意識が途切れる直前、何か優しい音が聞こえた気がした。






 翌朝目を覚ますと、そこに紅の姿はなかった。
 いつもベッドの隣に紅の布団を敷いているのだが、昨夜用意した時のまま、少しも乱れていない。つまりは、布団へ入らなかったということだ。
 徹夜したのか。
 面白い本に出会ったり、考えている問題で納得のいかない答えが出たりすると、突き詰めるまで侵食を忘れてしまう紅のことだ、昨日の夜も本を読んでいたから、そのパターンなのだろう。
 やれやれと息を吐いてリビングへ行くと、思った通りに紅はそこにいた。予想と違うのは、徹夜ではなくテーブルに突っ伏して眠っていたことくらいか。

「ったく……風邪引くっつーのに」

 尚貴がそう呟くのとほぼ同時に、紅が小さくくしゃみを洩らして目を覚ました。

「……ん、ぁ、尚貴」
「よう。寝るなら布団でって前に言ったろ。風邪引くぞ」

 紅はごしごしと目を擦りつつ、時計を見て。

「……あ。朝になってる」

 途端に両腕を抱き締めて身体を震わせた。

「……さぶい」
「当たり前だろ、パジャマ一枚で無理しやがって。昨日無理すんなっつったばっかりだってのに」
「んー、分かってるんだけどね……」

 点火したヒーターの吹き出し口に移動し、ずび、と紅は一度袖で鼻を拭う。
 それから、ぽつりと呟いた。

「昨日は、特別」
    ?」

 どう言う意味か問おうと口を開きかけたところで、先に紅が振り向いた。

「あ、そうだ尚貴。俺、朝御飯食べたら少し出かけてくるから」
「一人でか?」
「うん。今日、お昼前に漣が来るんだよね? 多分、その頃には帰ってくるから」
「……そうか。気を付けて行って来いよ」
「うん」

     また、何も聞けなかった。






「お邪魔しまーす。尚貴、いるー?」

 果たして、片岡家に到着した漣をリビングで出迎えてくれたのは、最高に真っ黒なオーラを背負った尚貴だった。
 唇を引き結んだ表情のまま固まり、ゆっくりと食卓に着く脩人を見遣ると、無言で苦笑いされた。
 あらまあ何かしら、このドス黒い雰囲気。そんなことを考えながらこれからどうすべきか策を練る。

「おう。来たか」

 地を這うような低い声で歓迎されても全く嬉しくない。
     これは完全に、百パーセント、紅と何かあったな。
 もう疑うべくもない。

「せっかくのバレンタインなのに……」

 漣にとって、今年は初めて「送る相手がいる」バレンタインデーだ。無論、男なのだから元々送る側として関係がなかったのは当たり前なのだけれど。
 話は戻るが、初めてのバレンタインデーだからして、とても気合が入っていた。ゆえに、数日前から準備をし始めて完璧なプランを立ててきたのに初っ端からこれか、となんだか泣きたくなった。
 だが、ここで何とかしなければこの辛気臭い空気の中でバレンタインデーを終えることになる。もう三十路も手前、それだけはなんとか避けたいところだ。
 そのためにはコイツをなんとかせねばなるまい、と一人気合を入れた時、インターホンが鳴った。

「? 誰だろ」

 尚貴が動く気配を見せないので、代わりに漣が玄関へと向かう。
 その向こうから現れたのは。

「ども。こんちはっス」
    あれ? 時国君」

 白い息を吐きながらもいつもと変わらない人の良い笑みを浮かべて立っていたのは、時国だった。だが、漣の声が聞こえたのか、次の瞬間尚貴がリビングから鬼の形相で出てきた。

「時国ィィィ! テメエか紅の浮気相手はッッ!?」
「ちょっ、尚貴落ち着いてよ! チョークチョーク!」
「うぉぉぉぉ〜!? ギブギブ! ギブっス部長〜!!」

 理由も分からぬままチキンウィング・フェイスロックをかけられた時国を救うべく漣が諸手を上げる。

「よりにもよって紅に手を出しやがってタダじゃおかねえぞ〜ッッ!!」
「いでででで!! 死ぐ! 死ぐっスゥゥゥ!!」
    尚貴、何してるのさ」

 ふと、入り込んだ落ち着いた声。顔を上げれば、時国の向こうに紅がいる。
 つまりは、一緒に来たと言うことか。そう言えば、来た時部屋のどこにも紅がいなかったような、と今更になって気が付いたが遅い。
 なんてこと、これじゃ決定的じゃありませんか。心の中ムンクの叫びになりながら、世界の終焉を予感する。そんなはずはない、尚貴の勘違いに違いないと昨日から言い続けてきたのに。
 しかも、相手が時国ときた。

「ご、ごか、誤解……」

     ぱたりこ。
 尚貴にプロレス技をかけ続けられた時国がとうとう落ちた。微妙な沈黙が支配する中、真っ先に口を開いたのは何が起きたのか分かっていないと見える紅だった。

「尚貴、何かあったの?」

 飛び出してきた時の、尚貴のただならぬ様子を思い出したのだろう。何と言えば良いのか分からず、時国にマウントポジションを取りながら項垂れる尚貴の傍らで漣が紅に向き直る。
 訊くなら、今しかない。そして、自分しかいない。

「紅、時国君と何してたの?」
「何って? あ、漣来てたんだ」

 全く冷静さを欠かない態度。

「……単刀直入に聞くけど、紅、浮気してる?」

 だが、その問いにはさすがの紅もきょとんとして見せた。

「俺が? ……誰と? なんで?」
「え?」

 少しも嘘の見えない声。「なんで?」が全ての答えのように思えて。
 紅はしゃがみ込み、時国の頬をぺちぺち叩いて起こすと、マンションの階下を指さす。

「之哉、あれ、やっぱり俺じゃ無理。悪いけど、運んできて。重くて運べない」
「オ……オーケイ……」

 掠れた声で答えた時国が尚貴に退いて貰った後で身を起こし、ややして、エレベーターを駆使しながら運んできたモノは。
 一辺二メートルはあろうかと言う、箱だった。しかも頂点では可愛らしくリボンが結んである。

「でかっ……」

 思わずと言った感じで脩人が洩らした一言が、紅と時国を除く全員の心そのものだった。

「やっぱムリっすよ紅君、これ部屋ン中入んないっス、デカすぎて」
「入れて。ここだと俺も皆も寒いから、こんなところで御開帳はヤダ」

 紅の言いつけ通り、何とか片岡家の中にその箱を入れようと試みて必死で箱を押す時国。

「あれ……何が入ってるんだろ?」
「人一人入れそうなぐらいの大きさですよ」

 脩人の言葉に、漣の記憶の蓋が蠢く。同時、同じことを考えたらしい脩人と目が合った。双方何かを言おうとした時、明らかに時国の動きによるものではない振動が箱の中から響いた。

「…………まっ……」
「まさか……」

     紅は時々とんでもないことをやらかす男だ。
 四苦八苦して時国が箱をリビングまで押し込め、全員がソファに着いた時、直前まで漣と脩人が感じていた「まさか」は現実のものとなった。

「そんでは、部長の部長昇進を祝してー、プレゼントでーす」

 リボンが解かれ、中から転がり出てきたものを見た瞬間、尚貴、漣、脩人共に絶句する。
 ゴンゴロゴロゴロと音を立てて出た、箱の中身は。

「……しっ……    島田ァァァッ!?」

 珍妙な形に縛り上げられた、元・内務部長島田隆久だった。ここに来るまでに何があったのか、目を回して気絶しているが間違いない。

「なんでオマエがこんな……てゆーか何だこの縛り方!?」

 大抵の事には豪放な尚貴も、予想外の事態に完全に混乱しているようだった。
 どこからツッコめばいいのか分からず右往左往する尚貴の前で、時国がぺし、と己の額を叩く。

「亀甲縛りにしようとして、失敗しました」
「あれって結構難しいよね」
「ナニ落ち着き払ってんだオマエも時国も!! つーかマジなんで島田がこんなことになってんだ!?」
「捕獲したから」
「なんかあれ以来引っ越したみたいで居場所掴むの大変だったっス。尾崎部長がいなかったらどうなってたことか分かんねっス」
「だーかーら! なんで捕獲なんてことになってんだよ!?」

 尚貴を見詰める紅が、ふい、と首を傾げた。
 おかしいな、とでも言うように。

「なんでって、尚貴が言ったんでしょ? この人を殴りたいって。俺、あの時のことあんまり覚えてないけど、この人で合ってるんだよね?」
「は……」
「俺、他にやることあったから之哉に頼んで居場所探って貰ったんだ」
「最初はどこ行ったか全然分かんなかったんスけど、尾崎部長が引っ越し先知ってるって言うんで」

 がくりと尚貴が床に崩れた。
 言った。確かに二週間ほど前、そんなことを言った気がする。
 しかし、だからって。    ああもう、本当に彼は律義なのかズレているのか抜けているのか、……おそらくその全てだろうけれど。
 てゆーかそんなフザけた計画止めろよ時国、と崩れた体勢のままで思った。なに協力しちゃってんだよ、しかも亀甲縛りとかアホかオマエ。そんなことをつらつらと考えるが、やがて沸いてきたのは誤魔化し難い笑いだった。
 なんだかもう、胎の底から笑いたい。こんなバカバカしいこと、笑いが止まらない。
 あれこれと考えていた自分がとんでもなく間抜けに思えた。空回りとはこういうことを言うのだろう。

「……アハハ」
「尚貴?」
「アハハハハっ、何だよ、俺すっげー馬鹿みたいじゃねえか、ヤベ、マジ笑い止まんねえ、」
「……喜んでくれた? よかった」

 まあ、嬉しいことには変わりない。自分が会話の中で洩らした、なんてことのない一言を拾って、ここまで苦心してくれるとは思わなかった。
 それだけでも嬉しい。
 嬉しいけれど、取り敢えず。

    島田にはお引き取りいただいて結構です」
「え? だってまだ殴ってないよ」
「いいから」

 せっかく捕獲して、箱に入れて、ラッピングまでしたのに……ととてもとても残念そうな紅の顔を見ながら、時国に手伝って貰って島田を放流する。なにやら罵声を吐いて去って行ったが、何と言ったのかは特に興味もない。
 負け犬さながらの島田の後姿を見送って、リビングへと戻った。
 先ほどまでの喧騒が嘘のように静まり返った    平和な空気が戻ったリビングでは、すでに勝手知ったるで漣が淹れたお茶の時間が訪れていた。

「どうだった?」
「なんかエライ怒ってた」
「だろうねぇ……ワケも分からず捕獲されて、縛られて、箱の中に押し込められて……じゃあさ」

 島田に同情するような力のない表情を浮かべた漣が、はい、とコーヒーの入ったカップを差し出してくれた。ありがたく受け取り、取り敢えず一息に中身を煽る。
 すぐさま空になったカップをテーブルの上に置くと、こちらの動向をじっと窺っていた紅が、おいでおいでをするように手招きを始める。

「あ? どうした紅」
「……俺、あんまり空気とか作るの得意じゃないから、もういつでも同じだと思うし。    これ」

 パーカーのポケットを探った紅が取り出したのは、先ほどの大箱とは打って変わってこじんまりとした包み。子供の手でも持てるようなサイズのそれが、紅の両手に収まっている。

「今日はバレンタインデーなんだよね?」

 紅でも照れ臭さを感じているのか、その頬がうっすらと紅潮している。

「……俺に?」
「他の誰にあげるの? 俺が好きなのは尚貴だけだよ?」
「さっきのは?」
「あれは、部長になったお祝い。こっちは、……その、だから、」

 思わず、見惚れてしまう程の可愛らしい表情でそんなことを言われるとどうしようもない。
 尚貴はそっと、紅の手からその包みを取り上げた。

「……サンキュ。開けていいか?」
「うん。……気に入ってもらえるかどうか分からないけど、尚貴のために頑張ったよ」

 頑張った    、ということは手作りチョコレートか。どんな仕上がりになっているか気になるのだろう、興味津々と言った風体で、漣と脩人が身を乗り出して覗き込んで来る。そして背後からは時国。
 ソファに腰を降ろして包装紙をゆっくりと剥がしていく。やがて、その中から現れたのはなんの飾りっ気もない白い箱。色々なチョコレートの形を想像しながら、蓋を開けた。
 そこにあったのは、チョコレートではなくて。
 箱にすっぽり収まるサイズの、木箱だった。

「うわ……」

 天板に刻んであるレリーフを見た漣が思わずといった感じで洩らす。

「あ、これもしかして……」

 脩人が手を伸ばして触れたのは、木箱の横に付いた小さなネジ。
 木箱を取り出して、蓋を開ける。
     軽やかなメロディーが流れ出した。
 木箱の正体は、オルゴールだった。蓋の裏側は鏡が嵌め込まれていて、ボックスの方には幾つかチョコレートが並んでいる。

「……これ、まさかオマエが作ったのか?」

 その問いに、紅はニコッと笑う。

「オルゴールなんて作るの、初めてだったからすごく大変だったよ。そんなにちっちゃいのに二週間もかかった」
「…………」
「俺、バレンタインにおじいちゃん以外の誰かに何かあげるの初めてだし、普通にチョコレートあげるよりも何か残るものがいいなって思って。どうしようかなって考えてたらさ、この間尚貴がタイピンその辺に投げ出してたの思い出して、女の人ってジュエリーボックスとか持ってるから、そんな感じになればいいなって思って頑張った。あ、もちろんそのチョコは食べられるよ」

 いつもより矢継ぎ早な言葉。淀みが無いのは常だけれども、先を急ぐような紡ぎ方は滅多に無い。
 つまり、それほど、照れているのか。あの紅が。

「出来るだけ内緒にしておきたくて、ここの所、毎日午前中はうち……あ、おじいちゃんと一緒に住んでた方だけど、うちで作業してたんだ。集中したかったから、携帯も切って鞄の中に入れっぱなしだったし……。でも、尚貴には大学に行くって言って出てきてた訳だから、少しは行かないとなって思ってちゃんと午後は大学に行ってたよ」

 成程、今の紅の言葉で、全てが繋がった。
 彼を街中で見かけたのは、これから大学へ向かう途中だったから。携帯電話が繋がらなかったのも、まだあの家にいて携帯電話の電源を切っていたから。

「でも、オルゴール作るのに日数全部使っちゃって、昨日の夜、尚貴が寝てから慌ててチョコレートの用意したんだ。……なかなか尚貴、寝てくれないから内心少し焦ってた」
「…………」
「……えぇ、と……選曲は、俺の好みで悪いけど」

 言って、紅は視線を逸らした。けれども様子を窺うようにチラリと眼差しを投げてくる。
 けれども、いつまでも何も言わない尚貴に焦れたのか、ぐっと唇を引き結んで肩を縮めた。

「…………あの、尚貴」

 不安げな瞳の紅を呼んで隣に座らせると、ぐっとその肩を抱き寄せる。

「ほら、見てみ」
「え?」
「こんなにちっちぇーのに、俺とオマエ、ちゃんと映ってる」
「? うん」

 自分達が映る鏡を見ながら、紅は不思議そうに相槌を打つ。それがどうしたと言うのか、と書いてある顔を見遣って、その頬に触れるだけのキスをした。

「今のキスもなんもかんもさ、これからこのオルゴール見る度に思い出すんだろうなって思うと嬉しくなるよな。……俺もこんなんもらったの初めてだから、すっげぇ嬉しい」
「俺は、尚貴が嬉しいならそれでいいよ。頑張った甲斐があった」

 他に人間がいることも忘れてべったりと身を寄せ合う二人を目に、漣がひくりと口の端を引き攣らせた。ああ、これは完全に自分達の存在は意識にないなと諦めの境地に達しつつ。
 そんな漣の肩を時国がつついた。

「ところで瀬鴇さんは部長の息子さんにハッピーバレンタインやんないんスか?」

 暢気な時国の腹部にボディーブローを食らわせつつ、行き場のないやるせなさを吐き出す。

「こんなのの前であげられる訳ないじゃんっ! 俺なんて普通のチョコだもん!」

 げしげしと時国を虐待した後で、涙をちょちょぎらせながら完全敗北に項垂れた。無論、脩人はそんなこと気にするようなタチではないのだけれど、漣にだってプライドというものがある。
 朝方まで描いていた漣の完全なプランは呆気なく砕け散った。

「来年は……来年は俺が勝つもんっ!」

 バレンタインは何も勝ち負けではない……と脩人は思ったが、今の漣にはそれを言ったところで何の慰めにもならないのは目に見えている。ここは大人しく背中を叩いてやるに留めておいた。

「あ、言うの忘れてた」
「どうした?」

 紅は尚貴の耳元へと口を寄せてたかと思うと、そっと囁いた。

    ハッピーバレンタイン」















−おわり−

2010年バレンタインテキストでした。

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