雪影 2 



 向けられた、瞳。
 漆黒の双眸は、何処までも澄んで。
 其の瞳の中に映る    自分。

    何か用?」

 彼が問うた。少年にしては冷静な、淡々とした、余り抑揚の無い声。

「何か用、って…オマエ」

 開口一番余りの言葉に思わず絶句する。すると彼は怪訝な瞳で首を傾げた。

「って言うか、アンタ誰?」
「…ヒトに名前を聞く時はまず自分が名乗るのが礼儀だろ」

 普段であれば其の侭普通に名乗るのだが、流石にこの態度に頭に来ていた蓮治、そう言い返す。
 ところが。

「言いたくないんだ。だって俺、まだアンタの事信用してないし」

 …少年の方が上手であったようだ。

「信用するしないの問題かよ? 失礼なガキだなオマエ」
「そりゃ御愁傷様。人間の性格なんて一朝一夕じゃ変えられないから今直ぐアンタへの態度を改めるのは無理そうだね」

 ところで用が無いなら手、離してくんない?
 唇に微かな笑みを浮かべ、彼は促すように小首を傾げた。悔しい事に、…其の、微かに唇を曲げただけの笑みが至く魅惑的だった。
 …こんな、成人の域も出ぬ少年の笑みに目を奪われた自分が腹立たしい。

「…礼の一つも無しか? あんな所にいたのを助けて遣ったのに」

 ふふ、と少年は再度笑う。それもまた、口角を持ち上げただけの。

    誰も頼んで無いじゃん?」

 時間が停止した。

「…は?」
「誰も助けてくれなんて言ってないじゃん? 少なくとも、俺は頼んだ覚えは無いし。それなのに礼を要求するのって何か可笑しくない?」

 …本当に、腹の立つ少年だ。
 苛々した気分が治まらなくて、蓮治は其の腕を掴む。そうして、彼が向かっていたエントランス出口とは逆の方向、つまりはエレベーターへと向かって歩き出した。

「離して欲しいんだけど」
「…オマエみたいなガキとは一度、ゆっくり話し合う必要がありそうだからな」
    俺には無いね」
「オマエに無くても俺にあんだよ。良いから黙って付いて来い」

 口は達者でも其の腕力はそうでも無いらしい。後ろで溜息を吐く気配がしたが、無視してエレベーターに乗り込んだ。目指すは最上階。
 静かなエレベーターの中、蓮治は腕を組んで彼を見遣る。

「…オマエ、幾つだ」
「言う必要無くない? そんなもん知ってアンタに何の得があんの?」
    本当、可愛くねぇガキ」
「其れはお互い様」

 ぶちっ。
 体の中で、何かが切れた音。けれども自分はオトナだから、この場で怒りに任せて怒鳴るような真似はしない。黙っていてやる事にする。
 半分伏せられた瞼。話をする時以外は此方を見ようともしない。小奇麗に整った顔がやけに蓮治の目を惹き付けるのがまた苛々する。

    美人は性格悪いって言うけど…本当だな」
「何で?」
「実際オマエの性格と口が悪いからだよ」

 ところが、其処で    予想外の事。
 彼は一瞬の後にプッと小さく噴出した。
 思わぬものを見て、蓮治は目を見開く。

「アンタ、変なヤツだね。其れ、俺にとっての皮肉のつもりだったんでしょ? なのに美人とか言ったら憎まれ口にならなくない? 憎まれ口のつもりが逆に褒めて如何すんの」

 先程までとは違って、くすくすと笑い続ける彼を目に、蓮治は溜息を吐いた。
 …本当に、ムカつく少年だ。
 不覚にも    今の笑顔に心奪われたでは無いか。

「…あー…」

 ぽつり、蓮治は呟く。

    厄介なヤツ」






 京極蓮治と表札の掛かる玄関。
 先程まで居た其処で、蓮治は靴を脱いだ。

    邪魔するよ」

 一応はそんな事も言うんだなと感心していると、彼は其の侭スタスタと廊下を歩き出した。
 …やっぱり失礼なヤツだ。
 家主より先にリビングに入りやがった。

「アンタ、一人暮らし?」

 振り返り、彼は問うた。

「ああ」
「ふーん…」
「何だよ」
「別に如何もしない」

 素っ気無く言い放ち、どっかりとソファに腰を下ろした。足を組んで腕を投げ出し、天上を仰ぐ。其の横顔に    何とも言えぬ憂いがあるように、見えた。
 無論、見えた、だけなのだけれど。
 と、彼が顔だけで此方を向く。

「喉渇いた」
「…は?」
「客には茶の一杯も出すのが常識じゃないの? 此処に連れて来たのはアンタなんだし」

 …何処までも腹立たしい。蓮治はキッチンに取って返し、途端、ああそうだと思い出す。珈琲はとうに駄目になっていた。
 あんなヤツ水で十分だとも思ったが、仕方無し、雪の中に居て冷えただろうし珈琲を淹れ直してやる事にした。嗚呼、美しきかな己の心根。

    オイ」

 ふと思い立ち、キッチンから顔を出す。

「何」
「砂糖とミルク如何する」
「砂糖は要らない」
「ミルクは要んのか?」
「ミルクも要らない」

 意味不明。
 蓮治は顔をしかめる。すると彼は此方を見遣り、

    牛乳入れて」

 今までと全く変わらぬ淡々とした口調で、一言、そう言って来た。
 呆然とした後で、噴出す。

「へぇ、    お子様」

 鬼の首を取ったかの様にニヤニヤしながら言う蓮治、今度こそ勝ったと思ったが。

    ま、オヤジでは無いよね」

 …完敗だ。
 本当にムカつく。
 荒々しい仕草で珈琲を淹れ、彼のカップには御丁寧にもホットミルクを入れてキッチンを後にする。
     ダン!!
 彼の前にカップを置き、怒り甚だしく憮然とした表情でソファに腰を下ろした。

「…態度悪」
「オマエが言うなオマエが!! 俺の方こそオマエ程態度悪いヤツ初めて見た!!」
「そりゃ縁が無かっただけでしょ。人間なんて星の数程いるんだから枠で括らないで欲しいよね」
「おーまーえーなァァ!!」
    で、何?」

 今にも爆発せんばかりの蓮治をさらりと無視して、彼は話を変えた。

「無理矢理引っ張って来たくらいだから何か話があったんでしょ? 俺には無いのにね。傍迷惑だからさっさと話終わらせて帰らせて貰いたいんだけど」

 こんな所で延々時間潰してる程暇じゃ無いし。
 言いながら、彼はカフェオレを一口、喉に流し込む。嚥下する時に動いた喉元に視線が奪われる。

「…あんな所でぐーすか居眠りしてたヤツが暇じゃねーとか良く言うよ」
「あの時は暇だったって話だよね、其れは。地球は動いてるんだから時間も過ぎてる。さっきと今じゃ大違いだなんて事、今時誰でも知ってる事でしょ?     アンタみたいにオトナならね?」

 …最大級の皮肉が来やがった!!
 いよいよ蓮治はこめかみを引き攣らせる。
 カップを置いてゆらり、立ち上がった。

「何、殴んの?」

 小馬鹿にしたように首を傾げる彼の肩を掴むと、乱暴に引き倒した。其の時、初めて彼が微かに眉を顰める。ソファの角にでも肩か何処かぶつけたのだろう。だが、謝ってやる気など毛頭無い。

    …アッタマきた」

 胎の底から搾り出した声。だが    そんな声にさえ、彼は動じなかった。
 くす…、再度微かに笑って、瞳を眇め、口角を持ち上げる。

    ヒトの携帯電話盗み見するようなヤツが良く言うよね。頭来た、なんて俺の台詞」
「な…ッ」

 何故、分かったのだろうか。もしかしたら矢張り、あの時実は起きていた?
 けれども其の問いは全て顔に出ていたらしい、彼はソファに押し倒された体勢のまま、腕を伸ばして蓮治の額を突々く。

「ポケットに、上向きに入れてた携帯電話が、起きたら下向きになってた。俺はただ彼処で寝てただけ。それで百八十度、狭いポケットの中で動く訳無いし    だとすると、一回取り出して盗み見たヤツがいる。そう考えるのが自然じゃない?」
「……ッ」
「悪いね。    お家柄、そう言う所には常に気を付けるようにしてるんだ」
「何?」
「ま、アンタが俺の携帯で何調べようと思ったのかは知らないけどさ」

 ふぅ、彼は軽くではあるが、一つ息を吐いた。

「…素性」
「何」
「素性調べようと思ったんだよ」
「俺の?」
「他に誰がいる。オマエみたいな面倒臭いヤツ、部屋に連れ帰るよりさっさと自宅に落っことしてきたかったからな。自宅の電話番号でも調べようと思ったんだ」

 彼の漆黒の双眸に見詰められるのは、何と無く居心地が悪かった。むずむずする様な、何処かむず痒い様な、何かが背筋を這い上がる様な、そんな    妙な感覚。
 緩く結ばれた唇に、何より視線が奪われる。

「じゃぁ    もう良いよね」
「は?」
「俺は此処から一人で帰れるし。文無しって訳でも無いから送って貰う必要も無い。    用が其れなら此処にいる理由も無くなった。帰って良い?」

 未だ肩を掴んだままの蓮治の手をそっと押し退けて来る手。
 其れを振り払うかのように、其の手に更にと力を込める。

    まだ用はある」
「…何? だったらさっさと言って」

 一層力を強くすると、流石に彼が眉を顰める。

「痛いんだけど」

 薄い肩に食い込む、己の指。きっと服の下、此の手を離せば暫し赤く痕の残るであろう程の力。
 此の少年が何者かは知らぬ。だが    此の少年、口は達者だが、それでも蓮治は彼に勝るモノを山程持っていた。
     社会的に。

    躾をしてやる」

 彼の眉が寄る。

「…はぁ?」
「オマエみたいなクソガキ、今の内に態度から口の利き方から矯正してやるよ。其の侭社会に出られると思うな、クソガキが」
    クソガキならもう構わない方が良いんじゃない?」

 淀み無く返された一言。

「俺だったらそんなクソガキに構うのは金輪際御免なんだけどね。アンタ、本当に変わってるよ。もしかして、苦労を背負い込むのが好きとか、そう言う自虐的な趣味なの?」

 其の首に、手を掛ける。肩と首とを捕らわれて、流石の少年も抵抗を封じられてしまう。喉元を圧迫されれば声を発する事も難しくなる。

「口の利き方に気を付けろ。オマエにあるのは所詮口だけだからな。こうやって押さえ込めば簡単に動きを止められる」

 けれども、其処で彼が初めて    蓮治を睨んだ。其れまでは無表情ばかりだった顔に浮かんだ、強い不快の色。
 ああ、其の目が良い、と思った。
 そうして気付く、彼の眼差しに感じた居心地の悪さの正体。
 此の目は、蓮治の情欲を揺さぶる瞳だ。周囲の人間と違って、全く媚の無い、強く己を持った瞳。
 己が彼に抱いたのは    支配欲だったのだと気付いた。
 其の、無機質で在りながら決して己を曲げない、それでいて肝心な所で精神の深淵を覗かせぬ黒の双眸。其の瞳を歪めて、屈服させて、泣かせたいと思ってしまうから、彼がどんなに睨んだところで蓮治にとっては逆効果だと言うのに。

「大して金も無い、強がってるだけのガキにあるのは口だけ。オマエにあるのは口だけだ」

     アンタ、何がしたいの?

 不意に、彼が唇を動かした。声は、発さぬ。否、蓮治に喉元を押さえられているせいで声は発せぬと言う方が正しかろう。其の唇が、そんな問いかけの一言を吐いた。
 読唇術を駆使して読み取って、答える。

    オマエを俺の犬にしてやる」

 馬鹿な犬には躾が必要だろ?
 其処まで言えば、彼は微かに頭を振る仕草を見せた。瞼を伏せる。

     お断り。

 そんな必要は無いと、上げた瞼、其の下の双眸が物語っていた。
 ああ、此の侭では本当に喉が潰れてしまうかも知れないと思いながら、頭の片隅であの憎まれ口が利けなくなるなら其れも良いかも知れぬと思う自分がいる。

     俺は既に、飼い犬だからね。

 既に。

「…誰の」

     「オヤ」の。

 飼い犬。
 自分は、親の飼い犬であると。

     だから、アンタの躾なんか必要無いんだ。どうせ、親から施されるものだから。

 蓮治はそっと彼の首から手を離す。久方振りの気道の開きに、彼は軽く咳き込んだ。
 けれども其の侭、蓮治は彼の首を人差し指でなぞる。

「でもな、彼処でオマエを拾ったのは俺だよ。オトシモノは    届け出なきゃ、拾ったヤツのモンだからな」

 ふふ、彼は再度、口元に笑みを刷いた。

「其れってネコババじゃん?     犯罪だよ」
「大なり小なり、犯罪犯して無いヤツなんていないだろ。どっかの本には人間の存在自体が罪とかあるしよ。くっだらねぇ聖典とやらには」

 彼の唇が結ばれる。一瞬だけ、現れる、苦悩。
 其の、苦悩の浮かんだ目元と口元がまた、腹立たしい事に綺麗だと思った。

    …そうかもね」

 再度伏せられた瞳、窺える長い睫毛。呼吸に震える其の肌が酷く鮮烈で。
 ややして、其の瞳が蓮治を捉えた。真っ直ぐに見上げて来る黒に、またしても妙な感覚。
 今度はどんな言葉が来るかと内心構える。
 そうして、彼が放ったのは。

    良いよ、アンタに飼われても」

 ぽつり、静かな部屋に響いて消えた声。

「ただ、条件がある」
「条件? ペットが主人に飼われる条件か? …普通無いだろ、そんなもん」
    呑めないなら契約破棄。そんなペット冗談じゃないからね」

 腑に落ちないものも感じるがまぁ、聞くのは自由だ。

「…其の、条件って言うのは何だ?」
「簡単な事だよ。そんなに無理難題じゃない。普通に学校くらい行かせろって事。要するに、多少の自由は与えて貰わないと応じられないねって話」
「学校、って事は…高校生か中学? まさか大学じゃないだろ?」

 瞬間、向けられたのは呆れた様な眼差し。

「…俺の何処が中坊に見えるってのさ、アンタには」

 …見た目としては有り得なくも無い。
 そんな一言は辛うじて飲み込んだ。

「高校だよ。オヤの脛齧って行ってる高校」

 つまりは、高校生か。
 退いて、と手振りで示されて、蓮治は先程とは打って変わって大人しく体を起こした。彼も同じように背を起こし、肩を回してやれやれと息を吐く。

「高校、何処だ」
「知って如何すんの」

 意味無いじゃん、との例の言葉が来る前に、蓮治は口を開く。

「逃げられたら堪らないからな。迎えを寄越す」
「要らない、そんなウザいの」

 それに、と彼は言うた。

「自由は持たせろって言ったよね。此処に来る来ないは俺の自由。だから    必要無い」

 其処で彼は携帯電話を取り出す。先程、車の中で蓮治が弄ろうと試みて、オートロックに敢え無く沈黙したあの、携帯電話。
 其れを蓮治に向かって差し出した。

「番号とアドレスは教えるよ。何か用があったら着信入れるなりメールするなり好きにすれば良いし。ただ、其れに答えるか如何かは保証しない」
「…それじゃぁ意味無いだろうが」
    外に出てった猫に、家の中から帰って来いって言って帰って来る?」

 …確かに、そうだ。
 外に散歩に出てしまった猫に、夕飯だから帰って来いと言うたところで実際に帰って来る猫なんぞそうそういない。自由奔放を愛する種族の上、聞こえなければ意味は無いのだから。

「気が向いたら来るよ」
「好い加減来やがれって拉致しに行くのは?」
「どうぞ御自由に。でもそんな飼い主は好きになれないね。アフターケアきちんと考えてるなら好きにすれば?」

 操作をして番号とアドレスだけを見せてくれる彼の画面を目にして写し取り、己の携帯電話に順を追って入力していく。
 けれども肝心の    名前が、空欄のまま。

「名前」
「え?」
「名前が無いと登録出来ないだろ」
「適当にペットとでも入れとけば? 登録出来れば十分なんでしょ?」
「そう言う問題じゃ無い」

 けれども、彼は口を笑みに曲げるだけ。

    ヒトに名前を聞くなら、まず自分から、でしょ?」

 …やられた。
 先程自分が言うたフレーズ其の侭に返される。
 けれども此処で先に彼が返してきた言葉を返せば其の侭終わりになる。
 …負けた。

「…京極蓮治」

 憮然とした表情で告げれば、彼は其の名前を携帯電話に打ち込んだ。
 其の上で、ひらりと身を返す。

「おい」
    名乗ったら俺も教えるとか言ってないし。適当に呼べば良いよ」

 …そしてまたまんまとやられた。

「取り敢えず今日はおしまい。    次、何時来るかは解んないけど…ね」

 気が向いたら、だから。
 気が向かないと来ないと思うよ。
 俺は、気紛れだからね。
 其処まで言って、彼は玄関口で靴に足を通す。
 適当にと言ったのは向こうだ、こうなったら思い切り変な名前で呼んでやると内心呟いて。
 そうしてドアノブに手を掛け    ちらり、微かに振り返った。

「でも、あんまり変な名前で呼ばれてもムカつくから    名前くらいなら、教えて遣っても良いよ」

 此処から見えるのは、前髪に隠れた目元、表情は窺えずに。
 口元が紡ぐは、彼の名前。

    八重樫湊香」



 じゃぁね、其の一言を最後に    扉の向こうに消えた。















−続く−

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