ああ、面倒なことになったと高坂一臣はもう何度目になるか分からぬ溜息を吐いた。
「なぁ、一臣。少しだけでも駄目か?」
原因は、これだ。
「少しだけでいいんだよ。なぁ、駄目か?」
一臣の額に一般的に苛立ちを表す血管のようなマークが浮いたのを、斜向かいにいる息子は見たことだろう。
目の前に立つ父が何を「少しだけでいい」と言っているのかは、分かりきったことだった。
奴は孫に会いたいのだ。孫と言えばすぐ近くの席の凪人と幾つか下の階にいる陽もそうだが、それとは別にもう一人いて、父が会いたがっているのはそちらの「もう一人」の方だった。
どちらかと言えば一臣に似た凪人や陽と違って、華奢で小さな、二人と母親の違う息子。最近までとある事情で秘匿されていた存在。降って湧いた「孫」が余計に父の興味を引いたのだろう。
「何度も言ってるだろ。まだ早い」
「でもなぁ」
「でももクソもないんだよ。そもそも向こうが親父に会いたがってないんだ」
「それは……聞いてみないと……」
分からないだろと小さな声でもにょもにょ喋る父親に、
「聞いてやったろうが」
バッサリ。
先日、当の本人に会いに行く時に、後ろからこっそりとついてくる父に気が付いていた。その上で、本人が望むなら面会を進めるつもりで祖父に会いたいかと尋ねたら、答えは「NO」。将来的に会ってもいいと思えるかもしれないが、今はまだ蟠りが解けていないと。その言葉は父も聞いていたろうし、実際にその時この話もした。だから、「本人に聞いてみなければ分からない」はずはないのだ。
その姿を遠くから見るだけならばと許したことが間違いだったか。
「 ……」
とはいえ、このままでは仕事にならない。はっきり言って「邪魔」の一言だ。
ああ、もう。
「……ったく」
仕方がない。
「分かった、聞いてやる」
そう言ってスマートフォンを取り出すと、覿面、父の顔がぱあっと明るくなった。
「それで嫌だって言われたら、今度こそ諦めろよ」
「ああ、分かった」
「出なくても諦めろよ」
「分かってる」
本当に分かっているのか、怪しいものだが。
とはいえ、「出なくても諦める」と言っているのだから、5コール待って出ないようであれば、諦めよう。そう思っていると、問題の5コール目で呼出音が途切れた。
『なに?』
「悪いな、急に」
『別にいいよ。何か用?』
些かぶっきらぼうにも感じるが、過去に自分がやらかした事を考えればこれでもとんでもなくソフトな方だし、何度か話した感じ、これがデフォルトだ。
「この間、じいちゃんの話をしたろ」
『うん』
「……それで、じいちゃんがお前に会いたがっててな。一回だけでいいから、顔見せてやってくれないか」
下手なことは言わずに、あえて用件をストレートに伝える。
あの時、会いたいか、と聞くと、由貴は「全ての蟠りが解けたわけではないから、今はまだ遠慮したい」と言っていた。それを知っていながらのこの電話であるわけだから、それは嫌な気持ちになって当然だろう。
「ただ、嫌なら無理は」
『 いいよ』
嫌なら無理して会おうとしなくていい、と言おうとしたところで、先に由貴から返答があった。
「いい?」
『うん。でも、一回だけね』
あと、と由貴は続ける。
『シノも一緒でいい?』
「ああ、もちろん」
『分かった。会社に行けばいいの? 出先からだから、一時間くらいかかるよ』
「分かった」
『あと、今度また何か美味しいもの食べさせてね。みんなの分も』
「おうおう、肉でも寿司でもなんでも食え」
由貴と通話を終えて、暫くスマートフォンを見つめる。消灯して暗くなった画面に、少しばかり顰め面の自分の顔が映った。
ああ、いや。
考えても仕方がない。「来る」と決めたのは由貴なのだから。
「会ってくれるって?」
一臣の言葉でなんとなく分かっていたろうに、それでもなお、わくわくした面持ちを隠そうともせず父が尋ねた。
「……ああ。出先だから、一時間くらいかかるってよ」
途端、輝く表情。ああ、そんな顔を見たのは久し振りだと思った。
「一時間。一時間か。長いなぁ」
「そう思うなら現場のひとつでも見てこいよ。近くにいくらでもあるだろうが。うちはゼネコンだぞ」
もはや名前だけ、とは言え一応はこの会社の会長である立場だ。棘のある声音で言えば、今の父はそんな事にも気持ちよさそうに笑って踵を返す。
「そうだなぁ。もし帰ってくるまでに来たら、ちゃんと呼び止めといてくれよ?」
「分かった分かった。相手の時間が許せばな」
恐らく最後の言葉は聞こえていまい。意気揚々と出ていく父の背中を見送って、小さく息を吐いた。
それからおおよそ一時間。父が戻ってくるよりも少し遅く、受付から由貴が来たと連絡があった。以前、社員証を持たずとも彼は通してよいと伝えてあったから、今回はそれを伺うことはせず、ただ由貴が来たことだけを報告してきたようだった。
由貴が来たと父に伝えると、嬉しそうな顔になる。それから少し、部屋のドアがノックされた。父は自分で迎えたかったのだろうが、その前に凪人がドアを開ける。
「兄さん、いらっしゃい」
そう呼ばれた由貴が、彼の向こうでなんとも言えない表情を浮かべていた。嫌だと言うよりも、どう反応すればよいのか分からないといった表情だ。
そして、彼らの後ろから陽が部屋に入ってくる。
「営業から帰ってきたら、下で会ってさ。社長室行くってからついてきた。お邪魔?」
「いや、いい、いい」
事情を知っているだけに、いてくれた方がありがたいのが正直なところだ。
「悪いな。急に呼び付けて」
「別にいい。今日はオフだから。ご飯の約束、忘れないでね」
「分かった分かった。食いたいもんが決まったら店押さえるから連絡くれ。 コーヒーでいいか?」
「うん。冷たいのがいい」
頷く由貴の隣で、
「ども、こんちは。お邪魔します」
准がそう言って軽く手を挙げた。
「すまんな。呼び付けた理由は聞いてるか? 」
「まぁ、大体のところは」
こっそりと尋ねると、准の方も苦笑しながら小さく頷く。ああ、恥ずかしい、と一臣は手で顔を覆った。
父と向き合っていた由貴が、
「おじいちゃん、こんにちは。由貴です」
と、言った。途端、父の顔が溶けるように眉下がる。
そうして父が口を開きかけたその時。
扉がノックされた。誰だろうか。子供たちも父もこの場にいる。となれば社員かと思うが、凪人の顔をちらと見るに、誰かが訪ねてくる伺いがあった様子もなさそうだ。緊急の用事だろうか? まぁ、良い。
「どうぞ」
そう声をかけると、一呼吸の後に扉が開いて。
「やぁ、一臣くん。邪魔するよ」
空気と共に自分の表情が凍ったのが分かった。
(ああ、くそ。 なんでこのタイミングなんだよ)
この場に現れたことも、ほんの一瞬、顔に出てしまったであろうことも、 由貴の存在を知られたことも。
扉を開けて部屋に入ってきたのは、足立だった。妻の伯父。かつて、奈穂と別れるきっかけで原因を作った男。決めたのは一臣だから、今更それを全てが彼のせいだと言うつもりはないが、彼が原因であることには変わりがない。
マイナスの感情を悟られないように、一臣は一瞬にして無理矢理に笑顔を作った。奈穂と別れてから二十五年以上、彼の前ではこうして笑顔を見せてきた。
「こんにちは。お疲れ様です、足立さん」
「おや、いつものように
「いえ、会社なのでね……、」
妻の紹介元で、今となっては親族だ。普段は名前で呼んでいるが、仕事中は、と言うニュアンスを含ませて、一臣は言葉を濁した。
そんなことより。
一体、何をしに来たのだろうかと思っていると、彼の方からそれを明かしてくれた。
「いや、なに。気になったことがあってね」
「気になったこと、ですか?」
「ああ。お孫さんが来ていると聞いてね」
笑顔で告げられたその言葉に怖気立った。
狙いは由貴だったのか。いや、しかし、それをどこで。
「先程現場で
この、馬鹿。
一臣は心の中でそう父を詰った。
結局、またお前じゃないか。お前のせいで、足立が由貴の存在を知ってしまった。
「それにしても、瑠璃にもう一人子供がいたたなんて知らなかったよ。どこで、いつの間に出来たんだい?」
「……瑠璃との子供じゃありませんよ」
「……ほう?」
足立の顔に、珍しく驚きの色が浮かんだ。
いや、本当に珍しいことだ。いつでも悠然と笑みを浮かべていて、彼が心動かされること、驚くことなどこの世にないと思っていたのに。
「それは、また……」
外に作ったのか、きみが、とでも言いたいのが分かった。
だから、否定する。分かるように。
「このナリですけどね。……凪人と陽よりも年上ですよ。こいつは」
つまり、凪人と陽よりも先に産まれた。瑠璃よりも、先に出会っていた相手。
番が妊娠しまして 、と。
昔、一度だけ彼に告げた言葉を、覚えていたようだ。
「 あの時の? 産まれていたのか」
そう呟いて、足立は由貴の顔を覗き込む。
「ああ、目元がよく似ているね。テレビで見ている時は気付かなかったが、こうして見ると一臣くんにそっくりだ」
テレビで見ている時は。
ああ、由貴が誰だかも、分かっているわけか。自分が由貴の存在を彼とイコールだと知ったのはたまたまだったが、まぁ、恐らく足立の方もたまたま、知っていたのだろうと思う。
「そういえば確か、『EDEN』のクリスと言えば……」
しっかり芸名も把握しているようで。
「 オメガ、だったね?」
心臓が嫌な音を立てた。
喉が不自然に動く。
由貴の向こうの足立と目が合って、彼は一瞬の後、なんとも言い難い笑みを浮かべた。
少しの沈黙の後、
「それが?」
と、由貴が言った。
「そんなこと、あの時テレビを見てた人ならもうみんな知ってる。それが何?」
「ああ、何、ということではなくてね。きみにとっても悪い話ではないと思うよ」
嫌な予感がした。
かつて自分も言われた言葉。あの男は、そうやって相手に首輪を付けるのだ。
「 よければ、きみの運命の相手を見付けてあげようか?」
思った通りだ。運び方は一臣の時とは少し違うが、結果的なところは同じ。
きっと、本当に運命かどうかは分からない、彼の近しい者を宛てがわれて取り込まれる。それだけは避けなくては。
第一、由貴がオメガであることを知っているのなら、それが明かされた歌番組で誰がなんと言ってその場を切り抜けたかも知っているはずで、それを思えば足立の申し出はあまりにも悪趣味だった。
「足立さん、そういう話は……」
さすがに、と制止しようと腰を上げると同時に、由貴が口を開いた。
「 いい」
そうして、足立を真正面から見据える。
「遠慮しなくても構わないよ。こう見えて、私は結構顔が広くてね」
「そうじゃない。俺が言うのは、そんなことしてもらっても意味がないってこと」
「意味がない?」
どういう事かと足立が微かに首を傾げた。
「俺は、自分の『運命』を知ってる」
由貴のその言葉で、部屋の中にいた者の視線が彼の傍らに立つ准に集まった。もしや彼がと思ったが、それはさらに由貴によって否定される。
「シノじゃない。俺は、運命を選ばなかったオメガ。だから、今更探してもらわなくてもいい」
なるほど。由貴の言う「意味がない」と言うのは、そういうことだったのか。すでに見知った相手であれば、確かに今更探してもらったところでまったくもって意味はないし時間の無駄だ。
そんな由貴と足立の間に、まるで由貴を隠すように准が身を割り込ませる。
「そのくらいにしてもらえます? そういう申し出、アルファの性質もあってさすがに不快です。 実際こいつの番、俺なんで」
准は笑顔ではあったが、口にした「不快」との言葉通りにその声に若干の冷たさが見えた。まださほど付き合いはないが、それでも彼がこんな言葉の選び方をするたちではないと分かる。もっとも、番がいると分かっていながら「運命の相手を探してあげる」と言っているのだから、アルファでなくても恋人にとっては不快だろう。
足立は准としばし見詰め合った後、いつものようににっこりと笑った。
「そうか。それは、すまなかったね。 他に何か力になれそうなことがあったら、ぜひ声をかけてくれ。それではね」
と、優雅に踵を返して足立は部屋を後にする。
扉が閉まって、それまで涼しい顔をしていた由貴の表情が、少しだけ変わった。
ふぅ、と准が自分を落ち着かせるように小さく息を吐く。
「あれ、奥さんのお父さん? お母さんと別れた原因になった……」
「伯父さんな。まさかこのタイミングで来るとは思ってなかった。 って言うか、おい! 親父!」
声を上げると、視界の隅で父がギクリと身体を震わせた。
「浮かれて他所でいらんこと言いやがって!」
「すまんすまん、つい」
「ついじゃねえ! こいつらにまで何かあったら責任取れんのか! いい加減にしろ!」
「すまん、気を付ける」
「今から気を付けても遅いんだよ。一番厄介な奴に知られちまったんだから」
この人にだけは知られてはいけない、という相手に、よりにもよって初手で知られてしまった。
ああ、どうしたものかと一臣は大きな溜息を吐く。
「でも、運命の相手を探すって、別に悪いことじゃぁ……」
バン!
一臣は勢いよくデスクを叩いて立ち上がった。一瞬、部屋の中に沈黙が訪れて、時計の針の音だけが聞こえる。
「由貴。 来い」
大きな歩幅で由貴に近付くと、その腕を掴んだ。
「もう帰れ」
「え? でも……」
ここに呼ばれた意味と目的を、まだ果たしたとは言い難いと由貴の表情が語っていた。それで良いのか、そのために呼んだのではないか、と。
「気にするな。また連絡する」
一臣に手を引っ張られながら、由貴は部屋を出る直前に父を振り返る。
「おじいちゃん、またいつか、ね」
そうして部屋を出て、エレベーターホールまでの廊下を歩いていると、由貴を挟んで隣の准が苦笑いした。
「すんません。さすがにちょっとイラッときて」
「いや、あれはあの二人の方が悪い。アルファとオメガにとっちゃデリケートな問題だからな。おまけにこいつにはもうお前さんっていう番がいるわけだろ。番がいる前で迂闊にあんなことを口にするのは、責められてもしょうがない」
分かっていてあえて言ったのであろうところが、またタチが悪い。
「……すまん、これだけは聞いていいか。お前、自分の『運命』を知ってるってのは……」
「ああ、」
なんだ、そのこと、と。
「本当だよ」
「そうか」
あの場を切り抜けるための嘘ではなかったか。
「なんでちょっと嬉しそうなの?」
「嬉しそう? 俺が?」
「うん。ちょっとニヤニヤしてる。自分で気付いてない?」
思わず口元を手で押さえる。いけない、顔に出ていたか。
先ほど由貴は「運命」の相手は「シノじゃない」と言っていた。自分は、運命を選ばなかったオメガだと。
結局選んだのは自分自身なのだから、今更それに対して何を言うつもりもないが、それでも『運命の相手』というものに振り回されてきた一臣としては、「してやったり」というか、「ざまあみろ」というか、はたまた「よくやった」というか。
その、既に知っている「運命」がどんな相手であるのか興味がないと言えば嘘になるが、それはそれ、これはこれ。隣の准にとってもあまり嬉しい話題ではないだろう。
「いや、 気にするな。なんでもない」
「ふぅん」
それならいいけど、とエレベーターに乗り込んだ由貴が、
「お父さん、」
と呼んだ。
ん、と顔を上げて彼と視線を合わせる。
「またね」
ありふれた、しかして全く予想外の別れの言葉に、一瞬反応が遅れた。
扉が閉まる寸前、ようやく、
「ああ」
とだけ返すことができた。
「 ……」
また、か。たった二文字、三文字の言葉なのに随分と良い気持ちになるものだ。
口元が緩む。今回のそれは、自分でも分かった。
「親父、どうかした?」
部屋に戻ると、姿を見るなり陽がそう声をかけてきた。
「顔がにやけてる」
「知ってる」
そんなことは、言われなくても。
「また来てくれるって?」
「ああ」
「そっか」
陽は「にやけた理由」を察したように笑った。
またね、か。
スマートフォンが短く振動し、由貴からのチャットメッセージ受信を伝えてくる。メッセージを開くと、何やらURLが貼り付けてあった。その下に一言。
『ここがいい』
有名な洋食店のホームページだった。
「はいはい。 凪」
「何?」
「ここ、予約取っといてくれ」
スマートフォンごと彼に渡すと、画面を見た凪人は納得したように頷いた。
次にまた会おうという、約束。
ああ、なんともいいものだと一臣は思った。