まだ明るい時分から、由貴とセックスをして風呂に入った後、准はソファの後ろから、彼の髪にドライヤーを充てる。細くてしなやかな髪の毛を手櫛で梳くと、するりと指の間を落ちていく。
綺麗な髪の毛だと思った。
(でも嫌いなんだよなぁ、こいつ、これ)
この髪の毛も。
そんなことを考えていると、
「自分でやるのに」
と、ソファに座る由貴が言った。
「さすがにそのくらいなら出来るよ、俺」
そっくり返って、不思議そうな顔で首を傾げるかのような眼差しを向けてくる。
「ん? 俺が世話焼きてーだけだから」
「変わってるね」
「そうかぁ?」
「ほんと、世話焼き」
目尻がたわんで、ふわっといい香りが漂った。
「まぁ、お前にだけだけど」
「ふぅん」
一見素っ気ない相槌。けれども、前を向いた由貴の耳たぶが赤い。
「物好き」
「物好き? 誰が?」
「シノ」
「俺ぇ?」
「うん。俺なんかを番にするの……、かなりの物好きでないとしない」
相変わらずの自己評価の低さ。これをひっくり返してやるのは、相当な時間がかかりそうだ。
そんなことを考えながら、准は、ふ、と息を吐く。
なかなか、言い出せない。
「 なぁ、由貴」
思い切って、口を開く。
「なに?」
少しだけ顔を傾けてこちらを見た表情が可愛らしくて、また、揺らいだ。
「あー……」
「?」
「俺が、あの高校に行った理由、さぁ」
「あぁ、うん」
先程の話か、と由貴はすぐに思い当たったようだ。……違う、のだが。
由貴に対しては、肝心なところで日和る。
「まぁ、別にそんな大した理由じゃないんだけど。俺、兄貴いるじゃん」
「うん」
由貴が初めて手にしたギターの持ち主。言ってみれば元々『EDEN』が出来るきっかけでもあった人のことを、由貴も勿論覚えているらしい。
始めは「シノのお兄さん」と呼んでいたが、本人から名前で呼んでもらって構わないと言われてから、今では「優さん」と呼んでいる。
「当然小中って同じ学校でさ。そうすっと、教師なんかは当然、兄貴の弟ってこと知ってるわけよ」
「あー」
「入学した時から『四ノ宮の弟』なわけ。廊下で会うと『お、四ノ宮弟』とか言われてさ。学校休んだら『兄貴体調悪いの?』とか『プリント持ってって』とか、兄貴の方も兄貴の方で『弟何部に入るか聞いてる?』とかもうそんなんばっか」
教師はもちろん、兄の同級生からも同じように、こちらが知らない相手でも向こうは准を知っていて、「四ノ宮に先グラウンド行ってるって言っといて」などと事づけられたりしたものだ。聞けば、兄は兄で教師から同じように接されていたらしい。
「もううっぜええええええ!! ってなってさ。お互い高校は違うとこ行こうって兄貴とも話して」
「近い年に兄弟がいるとそうなんだね」
「そ。でもだからって偏差値ヘタに落とすわけいかねーじゃん。兄貴んとこと同じくらいの偏差値で、まぁなんとか通える距離……って条件で絞ったらあそこしかなかったわけ」
由貴が吹き出した。そのまま、しばらく笑う。
「あは、あはは。そうなんだぁ」
「だから大した理由じゃねーって言ったろ」
「いいじゃん。大したことあろうがなかろうが、シノに取ってはあの高校を選んだ理由だったわけでしょ」
そして、結果的に、その選択をして由貴に出会えたから。
くだらなくても、大した理由じゃなくても。
それでいい、 のだ。
「……あのままだったら、」
と、准は口を開く。
「あのままだったら、俺らどうなってたんだろうな?」
あのまま。
特に問題もなく友人同士、文化祭でバンド演奏をして。准は由貴に声をかけることはなく、由貴も准に話しかけることはなく、二人の距離は縮まらないまま卒業して。
「俺は、まぁ普通に大学行って就職してたろうけど」
普通に、どこかの企業に。そうして今、どんな仕事をしていただろうかは、分からないままだけれど。
「……俺は高校出て、就職するつもりだったから。でもこんな性格だし、生活力ないし、要領も悪いし……、多分どこにも居場所を見いだせなくて毎日悶々としてたかも」
ふ、と由貴が小さく息を吐いた。
「俺が自慢できるのは、音楽だけだもん」
音楽だけ。
「俺は自分の全部が嫌いだけど、」
由貴がこちらを見て、笑う。
こんな顔をして笑うのだということなど、昔の准は知らなかった。
「音楽が好きなとこは、ちょっと好き」
はにかむような笑顔。まるで光が踊るような、パチパチとした微かな擽ったさと胸いっぱいの愛おしさが溢れて止まらない。
「 お前が、さぁ」
と、由貴の笑みに誘われるように、准は口を開いた。
「自分のことは自分でやるんだって、意地張ってた時あったじゃん?」
「意地張ってないし」
「張ってた」
膨れた由貴の鼻を、ぎゅっと摘んでやると、目を瞑って妙な声を漏らす。
「んゃ」
「そん時、ハウスキーパー頼むつもりだって言い出したことあったよな?」
「うん」
そこは素直に頷くのかと笑ってしまった。
「俺、それ聞いて、……すっげぇ、嫌だなぁって思っちまったんだよ」
「嫌? 何が?」
何。
何が、「嫌」だったのか。
「ハウスキーパーって、誰が来るか分かんねえじゃん。少なくとも俺じゃねえわけ」
「でも、俺がやるより綺麗になるよ。来てくれる人、プロだし」
「それが嫌なんだよ」
「? 綺麗になるならいいじゃん。シノに手間かけさせることもなくなるし、俺の部屋が綺麗になれば、掃除しなくていいぶんシノも楽でしょ?」
全く分かっていない。この、面倒でいっそ醜い気持ちが。
いや、「それ」だから。
「まぁ、それ……俺には完全に逆効果っつーか」
「逆効果??」
勢いで話し始めたはいいが、完全に格好悪い話だ。どうしようかと思ったが、引っ込めるには既に遅い。
「お前の部屋に、名前も顔も知らねえ奴が出入りして、俺が掃除してた部屋あちこち弄り回して、俺が整理してた冷蔵庫漁ってメシを作んのよ」
理解させるために、あえて隠さずに若干過激な表現を使った。
「お前の生活環境にそういう異物が入るのがスゲー嫌なんだなぁ俺、ってその時気付いたわけ」
由貴のパーソナルスペースに自分以外のものが入ることが嫌だった。それによって自分が彼にとって用無しになってしまうことも、恐ろしかった。
知らない誰かが由貴の部屋にいることを想像するだけで、どす黒いもやもやが胸と頭の中を埋め尽くした。
「掃除が苦手でもいいのよ。料理ができなくても、どんなにポンコツでもいいのよ。 俺がやるから。俺に甘えたくないとか意味わかんねえ。今まで通り、俺にやらせりゃいいじゃんって」
顔も分からぬ想像のハウスキーパーに対して、勝手に由貴の部屋のものに触るなと何度も思った。
そうして、無意識のうちのその気持ちに気が付いて愕然とした。
「アルファって多かれ少なかれそういう『囲いたい』って欲求があるタイプなんだけど、俺は大分その度合いがキツイ方なんだなぁ〜って自分で結構引いたわ」
もう由貴の髪はとうに乾いていたが、なんとなく、手持ち無沙汰で。いや、触っていたくて、まだ時間がかかると誤魔化すように、手のひらで彼の髪の毛を掻き混ぜる。
由貴がこちらを振り向き、じっと准を見て。
「重」
グサリとその一言が突き刺さる。いや、まぁ、実際に褒められたものではないので否定はできない。
「まぁ……重いってか、束縛とか独占欲とか、そういうやつだな。…………どっちにしろキツイか」
言い方を変えたとしても、どちらにせよ良いものではないが。
「でも、そんな風に思ってくれてたなら、あの時こう、ぺっ! ってしたのは何で?」
由貴が何のことを言っているのかは、すぐに分かった。
「拘るね、お前」
「大事なことじゃん。分かんないんだもん」
と、由貴は唇を尖らせる。
「俺は……シノが、全部イヤになったのかと思って……嫌われるの、きついから……なんとかしなきゃって……」
ソファの前に回って、由貴の隣に腰を下ろす。幾分、乱暴な手付きで己の髪の毛を掻き回した。
「あれは、マジでそういう意味じゃなくて……」
これもまた格好悪い話だ。けれども由貴が気にしていると言うならきちんと誤解は解いておかなければならないわけで。
はぁ、と准は腹を括るように小さく息を吐いた。
「 俺、お前のこと恋愛の意味で好きだって気付いたの、あれのちょっと前でさ。……なんか、こう、気付いたら、色々意識しちまって、……今まで気になんなかったボディタッチとか? 心の準備しねーで触られたから超キョドった結果があれ」
ちらりと伺った視線の先、由貴の表情。
「ほらぁ! だから言いたくなかったんだよ」
「え……、だって、そんなことで……?」
「そうだよ、『そんなこと』だよ」
たったそれだけ。
「……だってお前、好きだって気付いた瞬間からすげえ可愛いんだもん」
ひと呼吸おいて、由貴の顔が、ぼ、と赤くなった。意味はちゃんと正しく伝わったようだ。
「真っ赤」
笑ってやると、隠すように由貴は己の頬に両の拳を当てる。
「…………ずるい」
「事実だからずるくねーわ」
准は腰を下ろしたばかりのソファから立ち、キッチンに入った。
「ちなみにこれ、桐矢さんにはあれ一発で見抜かれたけどな」
「え」
「『准くん、まさか今更自覚しちゃった感じ?』とか言われたわ 」
「怖」
「な。適わねえよな」
からからと笑って、用意していたコーヒーをグラスに注ぐ。
それを由貴に差し出して、准は頭を下げた。
「由貴」
「え?」
「 あの時は、ごめん」
と、素直に謝ることが出来た。ずっと、謝りたかった。
由貴はそんな准を見上げて、笑う。
「いいよ。理由が聞けたし、悪い意味じゃないって分かったから、大丈夫。もう気にしない」
ありがとう、と言って由貴は准の差し出したグラスを受け取り、口を付けた。
言うなら、今しかない。と言うより、格好悪いところばかり見せたが、この流れで口にするのが一番であるように思える。
「それで、なんだけど……」
「?」
すう、はぁ、と深呼吸をして。
「一緒に暮らさね? 俺たち」
だが、由貴は不思議そうに首を傾げる。
「またシェアハウスする?」
「や、そうじゃなくて……、一緒に住むのは、俺とお前だけっつーか……まぁ、早い話……」
ああ、では、もう。直接的な言葉を口にしてやるしかない。
「 同棲、しねぇですか」
言った。『言ったった』だ。
なんとなく由貴の顔が見られず視線を逸らす准に、
「いいよ」
と、由貴が言った。
「え? いい?」
「うん」
「マジ?」
「うん」
あまりにあっさりとした承諾に、逆に混乱してしまう。
そんな准に向けて、由貴はまた笑った。
「そしたら、もっとずっとシノと一緒にいられるね?」
なんて、言うものだから。
「あんまり煽んなよ。また歯止め効かなくなんだろ」
コツ、と額を合わせて彼の瞳を覗き込み、その勢いで軽くキスをする。
「いいよ。する?」
「バカ言え。さすがに体力持たねえぞ、お前。明日動けなくなったらどうするよ?」
「ミーティングは明後日じゃん。大丈夫だよ」
人の気も知らずに言ってくれる。知れば知るほど貪欲になって、抑えるだけでも大変なのに。
「そう言えば、さっきの話。 シノって俺の世話を焼きたいってこと?」
「それだと、まぁ、まだマイルドですね」
「え」
「要は、他の奴に手を出されると不快って話。お前の衣食住の世話を焼くのは俺だけでいいから手を出すなみたいな。……自分で言っててキツイな……」
改めて言葉にすると、少し堪える。恋人同士になる前、好きだと伝える前からそんな気持ちを抱いていたわけで。
「俺、嫌じゃないよ」
「は?」
由貴はそっと准の袖を引く。
「シノに独占されるの」
そうして、耳元に口を寄せて。
「……意外と俺たち、お似合いなのかも」
「……おまえ」
またやられた。ずっと、負けっ放しだ。
「明日立てなくなっても知らねーからな」
「そうしたらシノが世話してくれるんでしょ?」
ああ、もう。
「そりゃ、しますよ。喜んで」
「 で、そろそろ何やるか決めないとなーと思って今日集まってもらったわけだけど」
と、ルークが口を開いた。
「あと二週間くらいか。そろそろ決めないとヤバいな」
「みんな何かある?」
七月も下旬になり、サマーフェスタまであと半月ほどと迫った。この状況になってもまだ、『EDEN』は当日これまでのどの曲を演奏するつもりでいるのか決めかねていた。
「由貴、どれがいいとかある?」
「んー」
ルークの問いに、由貴はテーブルに両肘を着く形で頬杖をつく。
「ていうか、これは皆なら出来ると思うから言うんだけど……」
「うん」
「今のとこ、三曲やろうって話だったじゃん」
「そうだね」
現状、知らされている持ち時間の中で予定しているのは三曲。うち一曲は由貴が新曲を作ってくれるという約束で、今日この場でデモ音源を聞かせてくれることになっていた。その新曲を今知っているのは由貴だからこそ、コーディネートするにまず参考とされるのは由貴の選択なわけであるが。
さて、彼はどの曲を選ぶのかと見守る皆の前で。
「それ全部未発表曲とかどう?」
沈黙。
お互いに、え、どういうこと? と言いたげな表情を浮かべて、考える。
未発表曲 、ということは、その名の通りこれまで発売されていない曲、演奏していない曲。言い換えれば「すべて新曲」と言われていることと同じことだ。
つまるところ、この、残り二週間で新たに三曲詰め込まなければいけないわけで。
「終わったら二曲くらい足してミニアルバムとして出したらどうかなって」
「曲あるの?」
「曲はあるよ。今回用意した新曲も含めて五曲くらい」
「なんだそれ。面白そうじゃん。やろう」
即答したのはルークだけれども。
「ていうかモモ、その辺の制限あんの? 複数やる時、一曲は既存曲じゃないとダメとか」
「ないよ。だから、全曲未発表曲でも大丈夫。 まぁ、今まで実際にやったグループはないけどね」
そう言いながら、百瀬は背後のモニターにいつも通り、自分のパソコンを接続する。
今日まず表示されたのは、サマーフェスタ一日目のタイムテーブル表。
「おー、こうして見ると、いよいよって感じだな」
「……当初聞いてたより、結構変わってる気がするね?」
「お、『EDEN』見っけ」
ライブは昼前から始まり、『EDEN』の出番はちょうど真ん中。持ち時間は当初聞いていた通り、二十分ほどでこちらは変更なさそうだ。
「それで、由貴にひとつ相談なんだけど」
「? なに?」
「さっき、ストック五曲あるって言ったろ? それを、ここで全放出してもらうことは出来るかい?」
はたから見たらとんでもない提案ではあった。軽々しく言って良いことではなかったが、そこは、相手が由貴であるので。
「いいけど……、五曲全部やるの? さすがに持ち時間足りなくない?」
「そこは、これ。皆、ちょっと見て」
百瀬の声に誘われるように、彼の背後のモニターを見る。表示されていたのは、変わらずサマーフェスタ一日目のタイムスケジュール。これが、どうしたと言うのだろうか。
だが、二日目、そして三日目のタイムスケジュール表を見て、まず准が、
「い!?」
と声を上げた。
三日目のタイムスケジュール表の、下の方に。
「……二回出るの?」
桐矢の言葉は、そのまま他の問いともなった。
三日目にも、約十二分ほどの枠で『EDEN』の名前がある。
「どうしてもと頼まれてね。今回のフェスの目玉だからって。どうしようかなぁと思っててさ。どう? いける?」
全員が悩んでいる。いや、由貴は除く 、だが。
「五曲……五曲なぁ……」
「あと二週間で五曲……」
「俺はいける!」
「うるせぇ」
「黙れ」
ウィンクしながらのキメ顔で言い放ったルークに、准と千歳の厳しい声が飛ぶ。桐矢はマスクをしていても分かる難しい表情で、腕を組んで考え込んでいた。
「……由貴、とりあえず曲聴かせてくれる?」
「うん」
、で。
「あ〜」
とりあえず、立て続けに五曲聴いて。
揃って頭を抱えて、言うことには。
「やるか〜五曲」
「こんなの聞かされたら、やるしかねーだろうがよ……」
ああ、失敗した。聴いたら、やりたくなってしまうに決まっている。そして実際、「これを弾きたい」と思ってしまった。
このタイミングで聴くのではなかった。いや、聴いてよかったのだ。
「寝る時間なくなっちゃうね」
「なに笑ってんだ」
お前のせいだろと頬をつまむと、由貴は堪えた様子もなく笑っている。
「エッチする時間もなくなっちゃうね?」
「そっ……」
思わず、そうだな、と言いかけて。
「いや、それはするわ」
「するの?」
「意地でもするわ」
「あはは、そっか」
それは、それ。また別の話であるので。
「イチャイチャすんなよ」
「うるせえよ」
すかさず飛んでくるルークのヤジを撃ち落とすように、一言。
わざとらしく口を尖らせる彼を無視して、由貴を見た。
「曲とかはいつも通りクラウドか?」
「うん。一式上げてあるから、よろしく」
さて、さて。
やるしかないか。
前日の夕方に激しく降った雨も上がり、当日は良い天気になった。
『EDEN』の出番は夕方に差し掛かる前くらいだが、会場入りはもっと前。他のメンバーとも、昼前頃に待ち合わせをしている。時間はまだあるにはあるが。
「おい、由貴」
「…………んん」
「由貴。そろそろ起きろ」
「…………やぁだ」
ベッドの上で枕を抱えて、由貴が眉を顰める。そりゃ、出来ることなら准だって寝かせてやりたいがそうもいかない。
「メシ食わねえの? 食う代わりにもう少し寝るか? それならもうちょい寝かせてやれるけど?」
「……やだ」
「そりゃどっちのイヤなんだよお前」
「………………ご飯食べる」
とは言え、由貴が抱いているのは普段、准が使っている枕だ。准の方が起床が早いから、准がベッドを離れた後は無意識にそうして枕を抱き寄せる傾向があることにこの数日、気が付いた。
正直、その光景は愛しい以外の何物でもないので由貴がそれで良いなら放っておこうと思う。
由貴がカウンターテーブルに着いた頃、彼のスマートフォンに着信があった。
「……? はい」
相手は誰かと思ったが、それはすぐに、なんとなく知れた。
「うん。んー……真ん中くらい。始まりがお昼前だから……おやつの時間くらい?」
通話そのものはそれからほどなく終了し、由貴は手を合わせてから朝食を摂り始めた。
「陽?」
と尋ねれば、由貴は「うん」と頷く。
「会社、お盆休みだから見に来るんだって。それで、『EDEN』の出番何時くらい? って」
「ああ、なるほど」
そうか、世間一般では「お盆休み」なのか。もちろんそうでない会社もあるだろうが、高坂ゼネラルはそちらのタイプのようだ。自分たちがそういった時期の流れにまったく関係がない仕事だから忘れていたが。
「シノ、昨日も遅くまで練習してたね」
「誰のせいだと思ってんだお前」
由貴は准を見ると、何も言わずに笑った。
確かにここ数日、由貴の方がベッドに入るタイミングが早い。彼が眠った後にベースを弾くこともあった。
「なんとか間に合って良かったわ。五曲やるって決めた時は、正直どうなる事かと思ったけど」
「どう?」
「俺だって一応これで飯食ってんだぞ。五曲キツいですって、そんな理由で無様なベース聞かせる訳にいかねえだろが」
安堵の意味も込めたため息混じりに、准はコーヒーポットを傾ける。熱いコーヒーをかけられて氷がピシピシと微かな音を立てた。
「シノのベースが無様だったことなんてないよ」
と、由貴が言った。
「最初から、シノのベースの音は俺の理想。センもトーヤもそう」
ルークについては、普段から「世界一好き」と言っているので、分かりきったこと。
「……そりゃ、何より」
面映ゆい気持ちを隠すように、淹れたてのアイスコーヒーを差し出す。由貴は喜んでグラスを手に取ると、
「あ」
何かに気付いたような声を漏らした。
「そういえば、昨日寝る前にふっ……と思ったんだけどね」
「こういうタイミングでのお前の『ふと思った』は、嫌な予感しかしねえんだよなぁ。せめて三日前くらいには思い付いててくれ」
恐らく、今日のステージに関することだ。そう、『今日』の、すなわちあと数時間後のこと。
そしてその予感は当たるもので。
「『ヒマワリ』の時、ギターじゃなくてバイオリンにしたら駄目?」
そのタイトルは、今日、演奏する予定の三曲目。『EDEN』のトリ。
今までの経験上、由貴がそうした方が良いのではないかと言うならそれは恐らく正解なのだろうが、いかんせん、タイミングというか、残り時間というものが。
今言うなァ! と青い顔になるルークが容易に想像できる。
「………………俺はいいけど、ルークに殺されるぞ……」
少しでも早い方がいいというアドバイスに従ったのか、由貴は朝食後すぐに十二階のルークの部屋へ出掛けていき、「怒られた」と笑いながら帰ってきた。一応、了承は得られたらしい。物件が異なる桐矢と千歳にはチャットで知らせたようだ。
「シノ、楽器屋寄りたいから早めに出よ」
「了解。いつもの店でいいのか?」
「うん」
それからほどなく、身繕いを済ませて部屋を出る。どのみちステージに上がるには、会場に衣装という名の着替えがあるから、今はスピード重視だ。
とはいえ、どこで誰に見られるか分からないので、あまり適当でもいられないところが難しい。下手をすると『シノの私服クソダッサ』と容赦なく書かれてしまうわけで。
「ね、シノ、見て見て」
車に乗り込んで、エンジンをかける。駐車場から車道へ出る時に、ふと、助手席の由貴が准の袖を引いた。
「あ?」
「ほら、あれ。 虹!」
そう言って、由貴が指した先に。
「お」
七色に輝く、虹。
「おー、マジだ。すげ……」
導かれるままに、彼の指先を見ていると、不意に。
頬に、ちゅっと柔らかな感触。
驚いてそちらを振り向くと、由貴がいたずらっ子のような顔で。
「……お前なぁ、そういうことすんなら口にしろって言ったろうが」
「あはは」
手を伸ばして、アウターの上からその身体を擽ってやる。
由貴は身を捩って、けたけたと笑った。