高坂一臣は、幼い頃から優秀な子供だった。
勉学も運動も、なんでもよく出来た。そんな一臣を、両親は神童だと言って喜んだ。
実家は祖父の代から続く小さな建築会社を営んでいて、今の高坂ゼネラルコーポレーションが読んで字のごとくいわゆるゼネコンであるのは、そこが理由の起点でもある。当時は三次請けに使われる程度の小規模企業ではあったが、仕事はそれなりに途切れずあった。実家の隣に事務所があって、毎日作業員が出入りしていたことをよく覚えている。
馴染みの作業員は一臣を「カズ」と呼んで可愛がった。
「おう、カズ。おはようさん」
「おはよう。今日は何すんの?」
「昨日と同じよ。安全第一で頑張るわ。お前も学校ご苦労さん」
「おー。行ってきます」
現場によっては、朝早くから。入れ代わり立ち代わり、作業員がやって来ては仕事に出ていく。年齢もまちまちで、中学を卒業してすぐ、といった年頃の少年から、それこそ祖父の頃から三十年以上務めている者までいた。
大きくなりはしないが、倒産もしない。緩やかな日々が続いていく。それは会社としては安定しているとも取れた。
父は夜になると家に帰ってきて、母の作った夕食を取った後、晩酌をするのがお決まりだった。一人で飲んでいることもあれば、作業を一人、あるいは数人誘って何くれと話をしながら飲むこともある。
一臣が中学生になった頃、酒の席で聞こえてきた愚痴とも悩みとも取れぬ会話に、「こうしてはどうか」と何の気なしに伝えたことが、その通りにして良い結果を生み出したことがあり、結果として、それが父を狂わせた。
父は事ある毎に一臣に助言を求めるようになり、さすがに懸念を抱いた一臣は、
「中学生のガキの言うことなんだから、あんま真に受けすぎんなよ」
と、それとなく釘を指したが意味はなかった。第二性の一斉検査で一臣がアルファだと分かってからその傾向はさらに強くなり、ベータである父は穏やかな言葉の中に一臣の助言に対する依存性を見せるようになった。
父は、会社を大きくしようと言い出した。次第に昼夜問わず金策に走るようになり、あちこちに声をかけては、スポンサーを見付けてお金を借りるようになった。何度か一臣も連れて行かれ、その度に、「うちの息子は優秀なんです」と頭を下げる父の姿を見せられた。
時に土下座をする父の姿は、気分のいいものではなかった。記憶の中には作業員と談笑しながら現場に就き、安全第一で皆の状況に目を配る父の姿があって、今の父とはかけ離れた過去の父が、一臣は好きだった。それだけに、今の父の姿を見ていると心が沈む。
「……親父。そろそろ、やめた方がいいんじゃねえの。シゲさんもトヨさんも、ちょっと辟易してきてる」
ある日の帰り道、帰路を辿る車の中で、耐えきれずに一臣はそう言った。その日の昼間、「最近の社長、大丈夫かね」「なんだか鬼気迫ってるように見えて少し怖いな」と古株の作業員が父の身を案じているところを見かけたからだ。
「カズのことも、あんなに遅くまで連れ回して……、あいつまだ中学生だぞ」
「受験だってあるってのに……、まぁ、カズなら成績的にはどこだって楽勝だろうけど、そういう問題じゃないよなぁ」
二人は、一臣のこともそう言って心配してくれていた。
会社の規模をそれなりに拡張出来るだけのお金は、もう集めることが出来た。今ならまだ間に合う。引き返すことは難しいかもしれないが、ここで良しと妥協すれば、まだ。
「何言ってるんだ。今が踏ん張りどころなんだぞ。上手くいけば、一臣にも、一臣の子供にも、でっかい会社を残してやれるだろ。なぁに、大丈夫だって」
一臣の助言を求める癖に、その言葉は届かないらしい。将来の一臣のため、その子供、つまりは孫のためになると信じて疑っていないからだ。
(……俺は、別に)
大きな会社が欲しいとも、大きくなった家業を継ぎたいとも思ったことはなかった。小さくとも、父が「継いでくれ」と言えばそうするつもりだったし、「お前は自由に生きなさい」と言えば、これまた何かしら夢中になれるものを見付けてそうするつもりだった。
「……明日は俺、ついてけねえから。来週からテストだし、そろそろ勉強しねえと」
「おお、そうか。またトップだな〜」
呑気なものだ。
見栄と一臣に対する期待だけで無理矢理大きくした会社は結局のところ父には分不相応で、経営はあまり上手くいっていないようだった。それでも付いてきてくれる社員のことが気になり、それからも見るに見かねて時折「こうした方がいい」「これはやめた方がいい」と口を出した。そうすることで、会社は倒産することも上向くこともなく、平行を保って経営は続いた。
高校生活最後の年になる頃には、これまた見るに見かねて、高校生ながら一臣が直接経営に加わった。それを機に社名を現在の「高坂ゼネラルコーポレーション」と改めた。一臣が加わって以来経営は上向き、父はお飾りのトップになった。変わらず社長の名前は父のものであったが、一臣の手腕であることは皆うすうす気が付いていたようだ。
大学受験のための勉強時間は思うように取れなかったが、元よりそんなもの大してしなくとも問題はなかった。
「よう、カズ」
ある日、社内で声をかけられた。昔からずっと勤めてくれている「シゲさん」だった。会社が大きくなった時に、その勤続年数を認められ取締役の一人になったが、現場の方が好きだし性に合っているからと、今でも現場に出る人だ。
「お前、大丈夫か? 最近休めてるか?」
「ぼちぼち。大丈夫だって、勉強する時間削ってるし」
「学生。そこ削るんかよ、ダメだろが」
そう言い合って、笑った。
「お前、まだ若いしやりたい事もあるだろうし。あんまり無理すんなよ」
「サンキュ。シゲさんも、慣れねーことやらせてごめん。気にせずガンガン現場に出て施工費に貢献してくれよな」
「ほー、言うようになったなぁ」
そんな状況下でも、国内随一の大学に首席で合格した。大学と会社を行き来するようになり、プライベートの時間はどんどん削られていった。
(まぁ、でもここ最近はメシ食う時間がありそうなだけマシだよな)
日によってはそれすら難しいこともある。今日もなんとか時間が確保出来そうだ。
大学の近くにある馴染みのカフェに入って、比較的すぐ出来るメニューを頼むことにする。店員を呼ぶと、一人の若い女性が出てきた。
「はーい。ご注文、お伺いします」
胸元の名札に書かれた「小河内」の文字。この店に通ってしばらくになるが、初めて見るスタッフだ。
「カレー」
「かしこまりました。少々お待ちください」
彼女が身を翻した時に、ふわりと甘い香りが漂った。ああ、と思う。
(この女、オメガか)
アルファの対になる存在。難儀なことだと他人事のように思っていると、カレーより先にコトリとカップが置かれた。
湯気を立てる、飴色の飲み物。紅茶か。
「どうぞ」
「? 頼んでないけど」
こんなものを注文した覚えはないがと彼女を見上げると、
「サービスです」
と言って、笑った。
眼差しと脳が冷める。アルファに対する媚び。アルファだと分かってから今まで、うんざりするほど受けてきた。全てのオメガがそうだとは思わないが、ああ、この女もそうかと小さく溜め息が漏れた。
「そういうの、いらないんで」
僅かに冷たくなった声のトーン。だが彼女は臆せず、己の目元を指して。
「そーじゃなくて、ここ」
少しだけ、一臣の顔を覗き込むように。
「クマ、出来てます」
そう言って、にこっと笑った。
「睡眠不足には、紅茶もいいってこの間テレビで見たので」
コーヒー、緑茶、紅茶。おそらくカフェインが少なく、リラックス効果のある紅茶を選んだのだろうと分かる。
なんだか急に恥ずかしくなった。
「あー……、ども」
「いえ。寝るのが一番なんですけどね。大学生、忙しそう」
一臣の場合は、また少し違った理由だが。忙しく寝不足であることは事実で。
カレーを食べて店を出る時、
「これ」
と、何かを握らされた。見れば、キャンディだ。レジ横の小さな籠に、ご自由にどうぞとポップを貼っていつも置いてあるが、一臣はそれを手にしたことはなかった。
「糖分取ってくださいね」
ありがとうございました、と言う言葉と共に手を振って見送られる。
店を出て歩きながら、貰ったばかりのキャンディを口に放り込んだ。すっとした甘さと共に、心が軽くなっていく感じがする。
「変な奴」
気付かないうちに、そう言って笑っていた。
「 カズ、なんかいい事あったのか?」
「え?」
会社に着いて、緊急性の高い決裁書類から目を通していると、「シゲさん」から声をかけられた。
「いつもよりいい顔してるぞ」
「気のせいだろ」
「女か?」
「知らん」
それからも何度か店には通った。食べるのは、決まってカレーだ。なぜならば、出てくるまでの時間が一番短いから。
例の店員は、いたり、いなかったり。元よりスタッフの数自体が少ない店であるので、いる時には忙しそうに給仕している姿を見かける場合が多かった。客が少ない時には、一言二言、言葉を交わすこともあった。内容は大抵、他愛もないもの。暑くなってきましたねとか、昨日の雨凄かったですね、とか。
彼女の名前は、小河内奈穂といった。年齢は、一臣と同じ。初めて会った時、「大学生、忙しそう」と口にした事からもなんとなく感じていたが、大学には通っていないらしいと一臣は思っていた。
その日は、夕方から雨が降り始めた。
元々そんな必要はないと送迎を断っていたものの、電車で会社まで移動する時間が惜しくて一臣は少し前に車を購入していた。今では、車で移動することが基本になっている。
仕事を終えて帰宅する途中、大学の近くを通り掛かった。
学生御用達の書店の前で、一人、雨宿りをしている姿がある。
女性だ。見覚えのあるポニーテール。シンプルなシャツと、細身のデニムを身につけて、ぐるぐると棒を回すと出てくるタイプのビニール製のガードから、困ったように空を仰いでいる。
車を停めて窓を開け、ガードレール越しに声をかけた。
「 そこのポニーテール」
「あ」
「乗ってくか?」
図らずも、奈穂を送り届けることになった。助手席に乗り込んだ彼女はタオルハンカチで胸元や額を拭いながら、
「シート、濡れちゃうかも。ごめんなさい」
と、言った。
「いいよ別に。他に誰乗せる予定もねえし」
「とか言いながら、沢山乗せてそう」
「ねーよ。買ってから今まで自分一人だ」
そんな事を言いながら、笑い合う。
その日は信号運が悪くて、車で二十分程の距離に倍ほどの時間がかかってしまった。車内では、いつものように「急に降ってくるから大変だな」とか、「傘を持っていなくて」といった当たり障りのない会話を交わした。
彼女のナビゲーションで到着したのは、いわゆる「おんぼろアパート」。
「………………ここか?」
と、思わず呆然と呟いてしまったくらいだ。
「そう。これでも私の城なんだから」
奈穂は一足先に車から降りて、笑う。
「ありがとう。せっかくだから、上がってお茶でも飲んでって」
そう言う奈穂の後について、階段を上る。
後から聞いた話によると、この時、彼女は一臣に恋心を抱いたそうだ。アパートの階段を奈穂の後ろから登る。それは、万一奈穂が足を踏み外しても受け止められるように。本人が意識をしているにしろ、そうでないにしろ、そういったことが自然と出来るところが好きになったのだと。
『お前、チョロすぎ』
『いいの』
その話を聞いた時、思わず一臣はそう言って彼女が心配になってしまったくらいだ。
それはさておき、初めて入った奈穂の部屋は、驚くくらいものが無かった。
彼女はお湯を沸かすと、コーヒーを入れてくれた。適当に座って、との言葉の通りに小さな木造テーブルの傍らに腰を下ろす。
「休みの日は何してんだ?」
「内職かな。ここで一日黙々と」
「大学とかは?」
「ないない。お金ないし。だから内職も、本当は家で出来るデータ入力のバイトとかしたいんだけど……パソコン、高いんだもの。だからお金が貯まるまでは普通の……、箱を組み立てたりとか、そういうやつ」
「あの店もバイトか? バイトにしちゃ、結構遠くまで通ってるな」
「やっと雇ってくれるとこ、見付かったの。オメガっていうだけで門前払いされたりするんだから。少し遠くても、雇ってくれるだけでありがたいの」
初めて会った時に気付いていたが、彼女がオメガだということは何度か店で顔を合わせた後、本人から聞いた。同時に、一臣がアルファであることに彼女の方も気付いていた。
奈穂は小さく溜息を吐く。
「……オメガがこんなに生きにくいと思わなかった」
その一言で、会う時はいつもにこにこと笑顔の彼女の苦悩が分かる気がした。
「オメガに産んだ親を恨んでるか?」
「それはないけど。だって仕方のない事だもの。自分がどう生まれるか、選べたらいいと思うけど……実際どうなるか神のみぞ知る、じゃない?」
一臣がアルファに産まれたことも、奈穂がオメガに産まれたことも。
「あーあ、どうせならアルファに産まれたかったな〜」
二人っきりの時間が長いせいか、今日の奈穂はよく喋る。だが、不思議と嫌な感じはしなかった。
「 って、ちょっとは思ってる」
「ま、アルファはアルファでめんどくせーけどな」
「そうなの?」
それからしばらく、彼女と話をした。
奈穂は地元の高校を卒業して、この春一人で東京へとやって来たらしい。大学へは行かず、アルバイトと内職でなんとか、どうにかこうにか生計を立てているそうだ。
そしてその日以来、二人はプライベートに踏み込んだ話もするようになった。帰り際、店の近くを通った時にまだ彼女がいて、タイミングよくアルバイトが終了する時間にかち合うようであれば、送っていくことも出てきた。その場合は、そのまま彼女の部屋でコーヒーをご馳走になることも増えた。
「地元で大学行こうとか思わなかったわけ?」
何度目かの逢瀬の際に、一臣は奈穂にそう尋ねた。
その問いに対して、奈穂はこう答えた。
「家を、出たかったの」
そう言うものだから、てっきり、両親との仲が良くないとか、両親を既に亡くしていて引き取ってくれた親族との仲が良くないとか、そういったものかと思っていたが。
「私がオメガになってから、お父さんとお母さん、何かあった時にいつも謝ってばっかりだったから……」
何か、が何を意味するのか、すぐに分かった。それでも、 アルファの方に落ち度があったとしても。
すみません、と頭を下げる両親の姿を見て、見ていられなくて。
「……頭下げる親の姿なんて、見てて気持ちのいいもんじゃねえよな」
「アルファなのに分かるんだ?」
「どういう意味だよ」
「親が頭下げるようなこと、何もなさそう」
そう言って、奈穂は笑った。
「 それで、もう心配かけたくなくてね。一人でも大丈夫って見せたくて、上京してきたの。一山当てれば、安心してくれるかなって」
「一山ねぇ。当てられそうか?」
「全然。物価も高いし、今は生活するだけでいっぱいいっぱい。結構ギリギリまで切り詰めてると思うんだけど、それでも余計なお金なんてないんだもの。一山当てるにしても、元手が出来ないことにはね〜」
彼女の言うことは、真実であろうと思われた。この、無駄なもののない部屋を見ればそれがよく分かる。
「じゃぁ、一山当ててみるか?」
「どういうこと?」
首を傾げる奈穂に、己を指して。
「一山」
奈穂がきょとんとする。だが、一臣の言葉の意味を、正しく受け取ってくれたようで。
「おっきな一山!」
くすっと奈穂が笑った。
ああ、可愛いな、と思った。やがて、彼女は居住まいを正すと、頭を下げる。
「よろしくお願いします」
「こちらこそ」
そうして、奈穂と付き合い始めた。
彼女との交際は、楽しかった。段々と忙しくなる日々の合間に僅かばかりの時間を見付けては、顔を合わせて話をした。奈穂は意外にも料理が上手ではなくて、
「メシ屋でバイトしてんのに?」
「それはそれ、これはこれ。これから上手くなるんだから。見てなさいよね」
と、妙に焦げた卵焼きを食べて、「苦っが」と笑い合った。
付き合ってから初めて奈穂に発情期が訪れた時に、項を噛んで番になった。その後、彼女の妊娠が分かって、まだ学生の身ではあったが、彼女と結婚することにした。
楽しかった。妻は自分で決める、という一臣に、父もこれまで苦労をかけてきたからと認めてくれた。
順調に奈穂のお腹の子が育ち、あと一ヶ月ほどで産まれるであろう頃。今度の休みに、二人で婚姻届を出しに行こう、と約束していた。
「一臣くん」
と、会社の廊下で声をかけられた。
そこに立っていたのは、かつて父が金策に走っていた頃、結局的にその殆どを提供してくれた資産家の男性だった。
「足立さん。お久しぶりです」
代々続く名家の生まれであるという莫大な資産を持つ彼は、現在六十過ぎ。歳の割に若々しく堂々とした佇まいで、彼が声をかけてくれた友人達の資金が、高坂ゼネラルの基礎を築いた。
「頑張ってるか?」
「ええ、まぁ。なんとか」
「そうかそうか。聞いていた通り、本当に優秀だな君は」
「ありがとうございます」
足立は笑って、一臣の背を叩く。
だが、普段自らこうしてここへ来ることは少ない。その彼がなぜ、今日、ここへ。
元々資産家ではあるが、ちゃんと本人もそれに見合うだけの野心を持った男だ。何もなければ、わざわざこんな所へ来ない。ただ、父の顔を見に来ただけ、一臣を激励しに来ただけ、そんなことはないだろう。必ず何かしら、用件がある。
少しだけ、嫌な予感がした。
何か、用件があるとして。その相手は、父か、 それとも。
「聞いたぞ。結婚するそうじゃないか」
ゾッとした。視線の先にあるのは、笑顔。だが、その本当のところは、と想像して。
気付かないふりをして、努めて平静に。
「そうなんですよ。父が話しました? 浮かれてもう……孫が生まれるからって……。 番が、妊娠しまして。まだ若輩者の二人ですので、ぜひとも足立さんたちにはこれからもご指導いただきたく」
「ん? ということは、まだ籍を入れていないのか?」
しまった。
やってしまった。失言だった。
分かっている。彼は女性に対して誰彼構わず手を出すタイプではない。狙いは、奈穂ではない。
むしろ、その逆の。
「良かった、間に合ったようだな」
「え?」
何を言うかと構えた視線の先で、老紳士の笑顔が歪んで見えた。
「 君の、運命を見付けてあげたよ」
思わず、固まってしまった。
隙を見せてはいけない相手だと分かっていたのに。
「……は……?」
運命。
その言葉が、どういう意味を持つものであるのか一臣にはよく分かっていた。
今となっては、本当に妻が『運命』だったのかどうかは分からない。
ただ、あの時の自分は奈穂と一緒にいたくて、彼女と、もうすぐ産まれてくる子供を幸せにしてやりたくて、そのためにも結婚したかった。
それを、許さなかった者がいたというだけの話だ。
まずは会ってみなさいと強引に引き合わされた妻に初めて出会った時のような、不自然なまでの衝動は以降感じたことが無く、あの時お互いに発情期を誘発する「何か」を仕込まれたのかどうかを、今更調べる術はない。
陽が産まれてからの二十数年、ほとんどセックスレスになった。
紹介された『運命』は、足立の姪だった。
あの人の機嫌だけは損ねないでくれと、父は泣いて一臣に土下座した。
それはつまり、奈穂とは別れてくれということだ。そして、別れるということは、番契約を破棄してくれということだ。奈穂と番のまま、『運命』と結婚するなど、認められるはずはなくて。
機嫌を損ねた場合、厄介なのはこれまで提供した資金を全て返せと言われることだ。君もそろそろ一人でやってみなさい、なぁに、人生は何事も冒険と勉強だよと、もっともらしいことを言うに違いない。
無論、父が勝手に始めたことであって、一臣がそれを負う義務はない。だが、それらを全て見捨てて奈穂一人を選ぶことは、「会社のことは気にするな」と外野が言ってくれるほど簡単なことではなかった。
簡単に言うなよと何度思ったか知れない。彼らは善意で言ってくれている。それは分かる。だが、実際にそれが出来ない一臣にとっては、苛立ちの材料にしかならなかった。
そして、もう一つ恐ろしかったのは、ここで一臣が奈穂と別れることを渋って、足立に奈穂が始末されることだった。
「 …………」
番契約を破棄されたオメガは、長い入院期間を余儀なくされるほどの身体にダメージを受ける。学生時代に授業で何度となく聞いた言葉だ。
それでも。
生きていてさえ、くれるなら。
ごねて足立に手を出された場合、奈穂と一緒に子供まで命を落とすことが容易に想像出来る。だが、ここで番契約を破棄すれば、奈穂には多大な影響が出るが、二人とも命は助かる可能性がかなり高い。
オメガの治療には金がかかる。
どのくらいあれば、奈穂が十分な治療を受けて、子供も育つのか。治療期間はオメガの個体と様々な要件によって代わるようだから、一概にこう、とは言えないが。
子供のために、妻となる奈穂のために。何かあった時のために。
まだ大学生の一臣に用意出来た金額。破格ではあるが、それでもその頃の自分にとっては精一杯だった。
番契約を破棄した奈穂は、偶然にもビルを出たところで一人の男に助けられ、病院に搬送されたらしい。
いい意味で負けん気の強い女性だったから、恨まれるように別れれば、復讐のためにでもなんでも、子供は産んでくれると思った。そうすれば、子供は助けられる。産まれれば、奈穂も治療に専念出来る。そう思った。
それからしばらくして子供が産まれ、「由貴」と名付けられたととあるところから聞いた。ほどなくして、妻となった足立の姪の妊娠が分かった。
首に輪を付け、鎖で繋がれたようなもの。逃げられない。
ならば、逃げられるだけの力を付けて、いずれ足立を捨ててやろうと思った。
それでも、妻との間に産まれた二人の息子は可愛かった。僅かな暇を見付けては、相手をし遊ぶと、息子たちの方も一臣を父としよく懐き尊敬してくれた。
がむしゃらに働いて、大学に通って、卒業して。奈穂と別れて何度目かの春が近付いた頃、一通の手紙が届いた。宛先は、一臣の名前 、と言うよりも、社長室。差出人の名前は無い。だが、宛名を見るに、どことなく男性のものらしい筆跡だった。
「 ?」
注意しながら、ペーパーナイフで封を切る。
入っていたのは、一枚の写真と、それをくるむように折り畳まれた便箋。
『早いもので、この春、小学校入学です』
心臓がどくりと音を立てた。
まさか、これはと写真の表を見ると、一人の子供が映っていた。黒いランドセルを背負って、得意げな笑顔。
笑った顔が、よく似ている、と思った。そうか、もうあれから六年も経つのか。
送ってきた相手はすぐに分かった。奈穂ではないだろう。由貴本人でもないはずだ。となれば、答えは自ずと知れるわけで。
言い方は悪いが、何の意図もなく、善意で送ってきたわけが無いと思った。となると、理由は。
( 金か?)
奈穂を助けた男の身元は当時すでに調べてあった。栗栖紘という名前の、奈穂より十歳ほど年上の男らしい。翻訳家として生計を立てているそうだ。
こっそりと会ってみたら、どうやら由貴は見た目は元気そうでも難しい病を抱えていると相手は言った。嘘であろうとは思ったが、どのみち金が必要ならば出すつもりで彼に会いに来たのだから、構わなかった。
それからさらに数年経ち、由貴は恐らく中学生になった。そろそろ学校で第二性の一斉検査を行う頃だろう。
アルファか、オメガか、それともベータか。
色々と考えて、直接会って聞いてみることにした。
住んでいる場所、通っている学校は知っていたので、赴いて声をかけることは容易だった。
初めて直接顔を合わせた由貴は、年齢相応に子供らしいあどけなさの残る少年だった。だが、二十歳を過ぎれば中性的でとんでもなく綺麗になりそうな雰囲気があった。
「そろそろ、学校で第二性の検査はしたか?」
「あ、はい……今日、結果が返ってきて」
いきなり現れて、実の父親だと名乗った一臣に、由貴は怪訝な表情を崩さぬまま答える。
「見せてみな」
渡された結果用紙に書かれていたのは、 『不明』。体調不良や発育の度合いによって、この結果が出る。そこまで珍しいものでもない。恐らく、由貴は発育が早いか遅いかで言えば後者だろう。加えて、この結果はほぼ確実にのちのちベータになる。
ということは 、ベータか。
由貴と別れて、車に戻る。
「あ〜……良かった……アルファでもオメガでもなかった……」
そのどちらでもなければ、少なくとも、第二性が絡んだ厄介事に巻き込まれる可能性は大幅に下がる。
あとは、必要な時、彼が助けを求めてきた時に助けてやれれば。
ほぼ、という言葉が「確実」ではないことを、忘れているわけではなかったけれど。まぁ、そんなことはないだろうとタカを括っていた。「不明」自体が時折ある事だとしても、それからアルファやオメガになることはとんでもなく低確率だったから。全くないわけではないが、それにしても。よくある言葉で言えば、「うちの子に限って」。
だが、十数年ぶりに会った由貴からは、あの匂いがした。甘い匂い。アルファを惹き付ける、オメガの匂い。
ああ、そんな、まさか。
うちの子に限って 、だ。
焦った。幸いにも、由貴は一臣の焦りをそのまま焦りとして悟りはしなかったようだけれども。
オメガとして生きることは、なかなか困難なことだ。それは由貴本人もよく知っているだろう。現状を作る原因となった自分が言えたことでもないが。 さて、どうするか。
同時に、父と子である証拠がない、と由貴が言うので。
父子鑑定をして、公的に親子である証明を出せば、この先、何かあっても。
「うちの倅に何してくれてんだ、と睨みを効かせられる訳でして 、ね?」
にっこりと凪人が笑った。
それはさておき、
「え……待って……その話で気になったけど…………今何歳……?」
年齢不詳のオーラ。見てくれは若々しいが、纏う雰囲気が年代を測ることを許さない。なんなら百年以上生きている気さえする。今聞いた話とそれがごちゃ混ぜになって、由貴が開口一番に伝えたことはそんな言葉だった。
「さぁ、幾つだと思う?」
また、そうやってはぐらかす。
「……え? 高校の時から仕事してて……? 大学に入ってわりとすぐ……? お母さんと出会って……?」
それから、あれや、これや。今の話と自分自身の年齢を総合するにもしかしてこのくらいかと思えば、
「四十五」
先に答えを言ってくれた。
「俺二十歳の時に産まれたの!?!?」
「当たり」
からからと父は笑った。
まぁ、それはそれとして、と由貴はコーヒーを飲みながら、聞いたばかりの過去を頭の中で反芻する。話を聞いている間はコーヒーを飲む暇など無かったから、結局すっかり冷めてしまっていた。
反芻していたら、なんだかだんだん腹が立ってきて。
「なんで、その話、今まで黙ってたの?」
視線の先で、父は恨めしい程に長い足を組んで煙草に火を点けた。
「言ってどうなるよ。奈穂より
「瑠璃?」
「ジジイの姪」
なるほど、例の妻か。ということは、凪人と陽の母ということになるが、「ジジイの姪」などと言って良いものなのか。
今の話で、確かに色々と分かった。そしてそれと同時に、
「今まで言ってたのほとんどデタラメってことは分かった」
「ははは。デタラメか。まぁ、九割九分デタラメだな」
いかにもと言った感じの、ポツリと呟いたことまでが「わざと」であったのなら、一生勝てる気がしない。
例えば、前回ここで会った時。由貴がオメガだと知った際に「奈穂の方が当たりだったんじゃないのか」とか、なんとか言っていたが、恐らくああいったものも「わざと」。
さて。
なぜ、母と別れたのか。なぜ、由貴のためにと一億というお金をポンと出せたのか。少なくとも、この二つについては答えが出た。
「金が奈穂の治療に使われてたってことは、知ってたよ」
「知ってたの?」
「そうだろうなぁって思ってた。お前が生まれた時、健康だってのは聞いてたし。難しい病を抱えてるって栗栖の旦那は言ってたけど、まぁ、それは嘘だろうなって」
「……どういうこと?」
由貴が、元気そうに見えるが難しい病を抱えていて、治療費がかかると彼に嘘を吐いて二度目の金を受け取ったことは、既に育ての父、紘から聞いていた。その事だろうとは分かったが、「生まれた時、健康だと聞いていた」とは。
「お前が生まれてすぐ、一回見に行ったことがあるんだよ、俺」
「……どうやって?」
「昔話の中に、シゲさんってのが出てきたの、覚えてるか」
由貴は頷いた。
「シゲさん、親子でうちの会社に務めてくれててよ。その息子さん、ナオさんってんだけど、そっちの方も結構世話焼いてくれてたんだわ。で、お前が産まれてちょっとした頃、『奈穂ちゃんの子、見に行こうぜ』って言い出して」
見に行くとしても、どうやって、と言う一臣に、「俺にいい考えがあるから」と。
「いい考えって?」
「病院の前で張り込んで、あっちの両親とかが入ってったタイミングで俺達も病院に入る。俺はもしかしたら奈穂が俺の写真とか両親に送ってたかもしれんから、まぁ、帽子とかそういうのでちょっと変装して」
加えて、顔を合わせないようにして。
奈穂の両親の顔は、彼女から写真を見せてもらって知っていたから、遠目でも分かった。
新生児室の前で、彼ら以外誰もいないことを確認して、「ナオさん」が彼らに声をかける。あたかも自分も子供が生まれたばかりであるかのように話を合わせて。
奈穂の子供 つまり由貴がどのベッドに寝ているのか、健康状態はどうかとさりげなく聞き出す。
彼らが帰ったあと、窓越しに由貴を見た。
『奈穂ちゃん成分強めだな。男に言うのも変な話だけど、美人になるぞーあれ』
そう言って、「ナオさん」は笑ったらしい。
「だから、嘘だとは思ってた。まぁ、でも奈穂がそうなったのは俺の責任だし、お前の養育費も、俺が出すべきだと思ってたし。お前を育ててくれて、お前と奈穂のために使われんなら別にどっちでも良かったし、そのために五千万じゃ足んねえって言われることもうすうす予想してた。どのみちおかわり要請されたら出すつもりだったから、ピンと来たよ」
「……その時、言えばよかったのに」
「なんでよ。元はと言えば、全部俺の都合で俺のせいだぞ」
そう言われてしまうと、なんとも。
「お母さんに、本当はなんて言ったの?」
「何て?」
「お母さんが、この間入院した時」
今からでも、由貴の親権を渡して欲しい、と告げたら母が倒れてしまった、とこの男は言っていた、あの時。
本当は、何と ああ、いや。おそらく。
「……たぶん本当は、何も言ってない」
きっと、それもデタラメなのだ。
本当は、「何も言っていない」。何かしら、口にはしたかもしれない。だが、あの時この男が由貴に言ったような、由貴の親権に関することなど何も言っていないだろう。
「どうだと思う?」
煙草を咥えて、彼は意味ありげに笑った。それがわざとであることも、もう分かったから。
「もう、そういうのやめてよ」
由貴は話がしたくてここに来た。話をしなければいけないと思って、何より、父のことを知らなければいけないと思ったから。
「俺は、話がしたくてここに来たの。でもそっちがそんなだと、いつまで経っても近寄れないじゃん」
これでは、意味がない。どうにも出来ない。
「……お願い。…………お父さん」
それでも、あの話を聞いた後では、もう今までのように全てを拒絶して突っぱねる気も起こらなかった。勿論、全ての蟠りがなくなったわけではない。それでも、もう少し父のことが知りたいと思った。
父は、由貴が彼を父と呼んだことに驚いた表情を浮かべる。
「…………思ったより恥ずかしいね。やっぱり今のなし」
目の前の父を父と呼ぶことは、まだなんだか恥ずかしかった。熱くなった頬を手で叩いていると、
「……まぁ、そうだな。悪かった」
そう言って、テーブル越しに頭を撫でられる。
( あ)
この手付き。撫で方と、そのリズム。それから、漂ってくる香水の匂い。紘にも、子供の頃から何度となく頭を撫でられてきたから、分かる。
あの時は、熱に浮かされていたから朦朧としてよく分からなかったけれど、今なら。記憶から引っ張り出して、その違いが分った。
「奈穂には 」
と、父が口を開いた。
「 何も、言ってないよ」
あの時。
母が、倒れて再入院した時。
ああ、やっぱり、と思った。
「お前がテレビに出てんの見て、昔の反応とか思い出して、一度ちゃんと話しとかねーとなって思って、電話したら、奈穂が出て」
つい、名前を。
『 奈穂?』
そう、口にしてしまった。
ただ、それだけ。
「電話して話したかったのは、お父さんだったの?」
「ああ。見舞いに行ったけど、奈穂には今更何言う資格もねえだろ。結局、病室の中に入るのやめて引き返してきたら、エレベーターんとこでお前に会ったってわけ」
結果として母は倒れて再入院したわけであるから、この男の「せい」とも言えなくはないが。全てをそうだとしてしまうには、ただの偶然が大きすぎる気がした。今更どうこう考えても、詮無いことだ。
「最後。二週間くらい前、俺の部屋に来たよね?」
先程、由貴は「自分の部屋に来たか」という聞き方をした。だが今回は、来た、という前提の言葉。そこにあるのは、確信。
あの時、部屋にいたのはこの目の前の。
「言っとくけど、しらばっくれても無駄だからね。シノでも向こうのお父さんでもないの、もう分かってるし」
父は無言で目を逸らして、ふーっと煙を吐いた後。
「よく分かったな?」
由貴が初めての発情期で苦しんでいた時。行きたかったけれども行けなかった、という准でもなく、発情期が訪れたことを知らなかった栗栖の方の父でもなく。
「なんとなく……香水の匂いがしたの、思い出したんだよね。あっちのお父さんは基本的に在宅だから、普段香水なんてつけないし。…………何で、来れたの?」
どうして、あの時、あの場にいることが出来たのか。
「父子鑑定の結果が出たからよ。お前に送ったろ? で、見た? って言おうと思って電話かけたら、息が荒くて、呂律が周り切ってない。返事のタイミングもズレてて、ああ、もしかして発情期来てんのかってピンと来たから」
少なくとも、母と、今の妻の二人の発情期を見て来ている訳だから、思い当たるのも早かったのだろう。
「野上の息子とそっちのは、アルファだって公表されてるしな。番でないなら近付くのは一番危険だろ。だからって一人で何とか出来る状態じゃねえだろうし。まあ、大丈夫なら大丈夫で……、様子だけ見に行くかって」
そう言えば。以前も、「野上の息子」という言葉を聞いた。ルークが『野上TOYS』の社長令息であることを知っていなければ出てこない言葉だ。当然、その点は公表していないし、本人も進んで明かしていないから、一般的には知られていないはずだ。
「ルークのこと、知ってるの? なんか前も、前は小さい子供だった……みたいなこと言ってたけど」
「まぁ、昔な。ちょっと付き合いがあって。交流会って……平たく言や金と見栄の飲み会みたいなもんがあんだけど、それに来てたことがあったんだよ。にっこり笑うと皆思わず目が惹き付けられてな。当時まだ四歳とか五歳だったのに、子供らしい言い方と大人顔負けの言葉で、ああいうのこそ神童って言うんだろ」
「今はただのゲーオタですけどね」
准がそう言って笑った。ただ、子供の頃からそういった雰囲気であった、ということはなんだか妙に納得だった。
「ルークのお父さんとは、仲良いの?」
「まぁ、そこそこ」
「ふぅん」
そこそこ、とは言うが、その口ぶりからするに、例の「足立さん」、すなわち妻の叔父のように悪い印象を抱いてはいないのだろう。
彼の妻に関しても、凪人と陽が生まれて数年を置き、それ以来はほとんどセックスレスではあるようだが、未だ番契約を解消してはいないようだし、婚姻関係もそのままであるのならば、足立のことがあるとはいえ、同じことを二度繰り返すつもりはないようだ。番契約の解消にしても、離婚にしても、ダメージを負うのは彼の妻の方であるから。
「……お母さんのこと、まだ好きだったりする?」
「そりゃ、嫌いで別れたわけじゃねえしな。……けど、あっちはあっちで今幸せなんだろ。それを邪魔するほど野暮じゃねえよ。お前も栗栖の父親のこと、好きだろ」
「うん」
それは、そう。考える間もなく頷いた。
「なら、いい。俺も、お前のことここまで育ててもらってあの人には感謝してる。……感謝してるとか、俺が言えた義理ねえけどな」
なんだか、何も言えなくなってしまった。言いたいことは沢山あった。そのどれも、言う気になれなくなってしまった、と言うべきか。
そんな由貴の心を知ってか知らずか、父は溜息と共に呟いた。
「めんどくせぇなあ。 第二性なんて、無きゃいいのによ」