青空のファインダー 12 



 尚貴が目を覚ました時、そこは見慣れたマンションではなかった。
 清潔さを思わせる、一面白塗りの天井。部屋の中はしんとした静謐な空気に満たされていた。

    ……」

 ここは、どこだ。
 ありきたりではあるものの、真っ先に思ったのはそんなことだった。
 寝かされている、と理解した尚貴は、顔の前に手を掲げてみた。動く。
 続いて、口元が不便なことに気付く。触れてみると、ドラマなどでよく見る、呼吸器が付けられていた。意識不明の重病患者が装着させられる、口から鼻までを覆うものだ。
 どうして自分がこんなものを、と思いながらそれを外す。そうして、瞬く間に記憶がフラッシュバックした。最後に覚えているのは、紅と電話をしていたところだ。
 あの後、ああそうだ、刺されたんだ、と思って視線を巡らせると、ベッドの傍らでパイプ椅子に腰かけ、一心に本を読んでいる紅の姿が目に入った。
 なぜ彼がここにいるのかと不思議になる。あの時、自分は紅と電話越しに話をしていただけだ、その場に彼がいたわけではないのに。
 さらに、誰が自分を助けてくれたのかという疑問も出てくる。確かあの場には自分と島田以外は誰もいなかったはずだ。まさか島田が刺した後で助けてくれるとは思えない。ともすれば、誰にも発見されることなく、そのまま死んでいてもおかしくなかったかもしれない。    いや、その可能性のほうが高かったはずだろう。
 まあ、なにはともあれこうして生きていただけでよしとすべきか。
 もそもそと動いていることに気が付いたのか、紅がこちらを見た。
 しかし、なにを言うこともなくじっと尚貴を見つめてくる真紅の瞳にどうしようもない安堵を覚える。ふっと息を吐いて、口を開いた。

「……心配かけたな」
「うん」

 間髪入れず、考える様子もなく、紅ははっきりと答えた。
 その様子が妙におかしくて、尚貴はかすかに笑みを洩らす。

「はは……なんだよそれ。そういう時、普通は『ううん、そんなことない』とか言うもんだろ?」

 すると、紅は至極真面目な表情で首を傾げた。

「なんで? 心配したのは本当だよ」

 またいつものようにワケの分からない答えが返ってくるかと思っていたけれど、まったくそんなことはない。その一言がやけに胸の奥深くに浸透していく。

「そんなことない、っていうのは、心配してないってことだよ。それって、おかしくない?」
「そんなに心配してくれたのか?」
「うん。すごく不安だった」

 隠す様子も見せずに正面から告げられてドキドキする。加えて、こういう時の彼の瞳には不思議な引力がある、と尚貴は思った。

「そうか。ありがとうな」
「うん」

 手を伸ばして頭を撫でてやる。
 さて、それはさておき、気になることと言えば沢山あるけれども、一番引っ掛かるのは。

「なんで、助かったんだ……?」

 天井に視線を戻しつつ、呟く。尚貴にとって、それは独白であったけれど、聞き付けた紅はふたたび、首を傾げた。

「覚えてないの? 尚貴は、俺を助けてくれたんだよ」
「俺が?」

 こくりと紅が頷く。
 先述の通り、尚貴の記憶は彼と電話をしていて、島田に襲撃を受けたところで途切れている。そんな自分がどうやって、離れた場所にいた紅を助けたというのか。

「俺、あの後、すぐ尚貴のところに行ったんだ」
「え? なんでだ?」
    急に電話が切れたから」

 場所は聞いてたし、と言う紅の顔を見つめる。
 電話が急に切れた、たったそれだけのことで、彼は自分の元へと駆けつけてくれたと言うのだろうか。たった、それだけのことで。
 けれど、紅にとっては「たったそれだけのこと」ではなかったようだ。

「普段の尚貴なら、絶対にあんな切り方しないよ。だから、なにかあったのかと思った」

 そして、自分が倒れているのを見たのだと。
 その後、襲われそうになった自分を助けてくれたのだ、と紅は言った。意識はあったのだとすれ、記憶はない。俄かには信じがたい話だったが、紅が嘘を言っているとは思えなかった。
 おそらく、彼の危機を察して、本能で動いていたのかもしれない、と尚貴は思う。

「それから、救急車を呼んで漣に連絡した。救急車が来るまで、昔、おじいちゃんに聞いたやり方で止血とかしておいたんだ」

     と、言うことは。

「オマエが、助けてくれたんだな」

 どれだけ医者が最善を尽くしてくれたとしても、救急車が到着した時点で悲惨なことになっていたのだったら、意味はない。
 おそらく、救急車が到着するまでの紅の処置がよかったのだろう。
 だが、彼は黙って首を振る。

「俺は、おじいちゃんに教えてもらった通りにやっただけ。……だから、尚貴を助けてくれたのはおじいちゃんだよ」
「……そうか」

 それでも処置をしてくれたのは紅だ、ひいては彼が自分を救ってくれたということに変わりはないと思うが、紅のことだ、頑なに自分のおかげ、だとは認めないだろう。
 なんとも彼らしい。

「じゃあ、佐和七さんに感謝しないとな」
「うん」

 紅は少しだけ笑みを浮かべると、手を伸ばして尚貴の枕元にあるナースコールを取った。ボタンを押して、尚貴の目が覚めたことを告げる。
 ナースの到着を待つ間、尚貴は気になっていたことを問う。

「今日、何曜日だ?」
「日曜日。普通の人は、明日からお仕事です」
「ってことは……一日以上眠ってたってことか……」

 最後に記憶にあるあの日は金曜日だった。それから運ばれて、現在が日曜日、ということは、少なくとも丸一日以上は眠っていたことになる。
 まあもっとも、眠っていた、というより意識不明の状態だった    、と言うほうが正しいのだろうが。

「今は午前十一時。漣がお昼食べたら来るって言ってた」
「そうか。……処遇のこと、聞いとかねえとな」

 自分は被害者であるとはいえ、こんな騒ぎだ。妥当なところを考えても、すっぱりとクビだろう。軽くて左遷、以降の昇進が消える、そんなところか。
 漣にはそのあたりを確認しておかなければ、と思う。
 つい先日辞令が出たばかりだと言うのに、ついてないな。そんなことを考えながら、息を洩らした。

「あと、時国って人……之哉? が昨日一昨日って何度も来たよ」
「お、なんだって?」
「これからのこと、上から聞いてますんで課長の意識が回復したら連絡くださいって」
「漣じゃなくて、か?」
「うん、それも言ってた。瀬鴇さんも聞いてるはずですから、そっちに聞いてくれても構いませんって」
「そうか」

 彼の口から聞いて、いよいよこれからのことが現実味を帯びてくる。さっさと聞いてしまいたくもあり、いつまでも聞かずにおいていたくもある。
 早く済ませてしまえば楽になれるのは分かっているのだけれど。
 いかんともしがたい思いで、身体の力を抜く。
 同じ頃、病室の扉が開いて看護師が姿を見せた。

「片岡さん、身体の調子はいかがですか」
「ああ、どうも。いい感じですよ。うぉー生きてるーって」
「ふふ、でも無理は禁物ですよ。まだ起きたばっかりですしね、今日一日はベッドの上で安静にしていただきます。傷口に障るので、自力で立ったりしないでくださいね」
「あー……それなんですがね、大体全治どのくらいになります?」
「最低三週間は入院していただきますよ。全治二か月ですから」

 二か月、と聞いて目の前が揺れた。
 とてもそんなにゆっくりしている暇はない。クビを切られることを考えると、少しでも早く就職活動を開始したいところだ。自分には養う家族がある、こんなところでへこたれてはいられないのだ。その状況で二か月はかなり痛い。
 入院は保険が降りるからいいとして、と悶々と考えているうちに、看護師は心拍や脈を測り、濡れタオルを持ってきますねと告げて一度出ていってしまった。まだまだ風呂は許されないようだ。

「脩人は?」
「漣と一緒にお昼食べてから来るって言ってたよ。……尚貴のこと、すごく心配してた」

 ふと、尚貴はそう話す紅の肌がいつもよりさらに白みを増していることに気が付いた。その頬を指の背で撫でながら、そのことを問う。

「オマエ、寝てないのか?」
「本読んでたら、寝逃したんだ。……よく分かったね」

 オマエのことならなんでも分かる    、と心の中で呟いた。
 ふふ、と笑いながらも、彼が尚貴の手を避ける気配はない。こんなところを見てしまうと、どうしても自分が許されているのかと思ってしまう。
 そこへ、風呂桶に何本か蒸しタオルを入れた看護師が戻ってきた。

「はい、どうぞ片岡さん。お風呂は駄目ですので、これで身体拭いてください。これでも随分違うんですよ。足りなければまだまだありますから、遠慮なく言ってくださいねー」
「あ、どうもどうも」
「ええと、お手伝い、しましょうか? それとも……」
「俺がやります。大丈夫」

 かすかに頬を赤らめて手伝いを申し出た看護師だったが、呆気なく紅によって封じられてしまう。あらそうですか、と気の抜けた返事をして部屋を後にする。
 だが、彼女が去った後で、ふと紅がこちらを向いた。

「今、深く考えないで俺がやるって言ったけど、看護師さんのほうがよかった?」
「は?」
「男より、女の人にやってもらうほうがよかったかってこと。そっちがいいなら、今から呼び戻すけど」

 変なところで変な気を回すヤツだなと思いつつ、その申し出は断っておいた。
 紅に手伝ってもらいながら、ベッドの上に身体を起こす。身体に力を入れると、やはり傷口が痛んだ。ブルーの着衣を寛げ、上半身を露わにする。腕や腹部は自分で済ませるが、傷のある背中は彼に任せることにした。
 紅は洗面器から一枚、蒸しタオルを取り上げ、それを広げて尚貴の背中に押し当ててくる。

「おおー」
「どうしたの?」
「いや、一瞬気持ちよかった」
「よかったね」

 少しだけ冷たい紅の手が素肌に触れる。意外と体温が低いんだな、と思うと、なんだか今更のようにドキドキしてきた。俄かに身体が熱くなってくるような感覚さえある。
 それを振り払うように、違うことを考えよう、と考えた尚貴は、ふと紅の助手の件を思い出した。

「そういやオマエ、来週からだったな」
「なにが?」
「今関さんとこでの助手の話だよ。なにか用入りなもんがあったら、言えよ。これから色々必要になってくんだろ」
「ん……それはまだ、大丈夫。始まりの時期、先延ばしにしたから」
「先延ばし? なんでだ?」
「最低尚貴が退院するまでは、介助が必要だと思って。……大事な時に誰もいないと困るでしょ」

 それは、つまり。
 自分のために先送りにしてくれたということか。嬉しい半面、また無理をさせてしまったという申し訳なさが募る。それならば脩人にでも任せればいいと思ったが、その意見は即座に却下された。

「脩人は学校があるし、漣は仕事があるから。融通が効くの、俺だけだし」
「まあ、そりゃそうなんだけどな。ひとりでなんとかなる……とも、いかねぇか」

 しばらく悩んだが、結局は彼のお世話になることに決める。確かに、紅をおいては適当な人材がいなかったからだ。
 そして、一通り洗浄が済んだか、という頃、紅が口を開いた。

「尚貴の身体って、意外と傷が多いんだね」
「ん? ああ、まあな。ガキの頃から結構無茶やってたからよ」
「こことか、こことか……服の上からだと見えないところだけど」

 ひとつひとつ傷口を辿る紅の指先に、なんともいえず擽ったさを感じる。ともすれば笑い出してしまいそうだと思いながら、必死に堪えた。

「この肩のところの傷はどうしたの?」
「高校の頃、置き引き犯見ちまって。捕まえようとした時、逆上した相手のナイフが掠った」
「こっちの二の腕は?」
「まだ脩人とか漣がガキん時かなぁ。近所のチビたちがよ、サッカーボール追っかけて道路に出た時にちょっと。別に車だのバイクだのとぶつかったワケじゃねえんだけどさ」
「……なんか、他人のための傷ばっかり」
「おう、名誉の負傷だ」
「なに言ってんの、身体に傷つけて……」

 ぺし、と軽く背中を叩かれる。そういう紅の身体には傷ひとつなさそうだな、と言えば、なんてことのないように「ないよ」との言葉が返ってきた。

「傷作るほど外、出なかったし」

     ……妙に納得してしまった。
 そういえば彼は、マンションにいる時も大抵本を読んでいる。つまりは、あまり活発に行動しない。好きな場所が図書館ということからもそれが知れる。怪我をするほど派手に動かないのだろう。
 普段目にしている手や顔の白磁の肌を頼りにしなやかな身体を思い描こうとして、なにを考えてるんだとちょっとだけ自己嫌悪に陥った。
 なにはともあれ、使用済みのタオルを洗面器に戻すと、それと時を同じくして病室の扉がノックされた。ついで、漣の声が聞こえてくる。

「入ってもいい?」
「漣か? おう、入れ」

 着衣を着戻し、漣を迎え入れる。

「尚貴、目が覚めたんだ? ここに来る前、ナースステーションで聞いたよ」
「ついさっきな。お、それ俺にくれんのか?」
「ああ、うん。……でも、食べて大丈夫なの?」

 漣が手にしていたのは、果物が入ったバスケットだ。意識がなかったとはいえ、一日以上飲まず食わずの状態だった尚貴にとっては宝の山にも等しい。

「知らね。ダメなんじゃね?」
「じゃあ駄目。許可がおりるまで、これはおあずけ」
「うぉ、ムゴイ」

 漣とそんな軽口を敲き合っていると、不意に紅が立ち上がった。タオルの入った洗面器を手に、扉の向こうへと歩き出す。

「これ、返してくる。……あの人に電話もしないと」
「番号分かるか?」
「うん、聞いた」

 あの人    、というのはおそらく時国のことだろう。
 ぱたんと扉が閉じた後、しばらく彼が去った方を見ていた漣が視線を戻してくる。

「いつもと同じでクールに見えるけどさ……紅、一番心配してたんだよ」
「おお、マジか?」

 本人の口からも「心配した」と聞いてはいたが、他の人間から聞くとまた違った感慨がある。

「でも、すごかった」
「なにが?」
「紅だよ。救急車が来る前に、尚貴の止血とかしててさ。救急隊員の人が驚いてたよ? ……逆に、それがなかったら、尚貴、助かったかどうか分からないって。随分出血してたみたいだし」
「……そうか。じゃあ、やっぱり俺はアイツに救われたようなもんなんだな。紅はよ、俺を助けてくれたのは自分じゃなくてじいちゃんだっつってたけど」
「うん、それは言ってた。おじいちゃんに聞いた通りにしただけだからって。……実際処置したのは紅だしさ、聞いたことでも覚えてないと意味がないことだから、俺は紅の力だと思うんだけどな」

 でも、本人は認めなさそうでしょう、と苦笑する漣に同意する。
 漣は先ほどまで紅が座っていたパイプ椅子に腰を降ろした。

「そういや、脩人は?」
「あ、今トイレ。もうすぐ来ると思うよ」

 そして、図らずも沈黙が訪れ、漣がちらりとこちらに視線を送ってくる。

「……紅ってさ」
「あ?」
「尚貴のこと、どう思ってるのかな?」
「……知るか」






    はい。それじゃ」

 時国との通話を終えて、紅はぱたんと携帯電話を閉じる。
 窓際から離れ、病室へは戻らずに、そのままなにとはなしに歩き出した。
 階段を下り、病棟の渡り廊下に差し掛かった頃、ふと、前から歩いてくる人物に気付いて足を止めた。紅が気付いたことを悟ったのか、向かいで相手が手を振ってくる。
 そこに立っていたのは、頭髪もほぼ白髪へとなり代わった、八十近いと思われる男性だった。
 皆川隆三郎    、ここ皆川総合病院の二代目の院長である。故・佐和七宋之助と生前、とても仲が良く懇意にしていた相手で、なにを隠そう二十六年前、病院の玄関前に置き去りにされていた紅を発見した本人だ。
 そう、紅はこの病院に捨てられていたのだ。
 佐和七宋之助以外で紅が知り、長年付き合いのある唯一の相手である。
 今回尚貴を救った処置法も元は佐和七宋之助が彼から聞き、紅に教えたことだ。

「目が、覚めたかね」

 誰が    、と言わずとも、分かった。
 紅はこくりと頷く。

「うん」
「そうか、よかった。紅も安心したろう」

 軽く肩を叩かれ、紅はもう一度、こくりと頷いた。そのままふたりで移動し、いくつか並んだ椅子のうち、適当なところで腰を降ろす。
 午前中の受付が終了し、若干長めの昼休みに入った外来受付はしんと静まり返っている。午後の診察に際して一番手を狙ってか、すでに待機している患者もいるものの、普段の喧騒が嘘のように静寂に包まれていた。
 皆川は近くの自動販売機からコーヒーをふたつ購入して、その片方を紅に差し出した。紅はありがたく紙コップを受け取り、すぐに口をつける。

    佐和七が死んでから……もう、二週間以上になるなぁ」
「……うん」
「時間というのは早いもんだ。ついこの間まで、くだらないことを話しながらそこの飲み屋で一杯やっていたっていうのになあ」
「八十にもなるのに、まだふたりしてお酒飲んでたの?」
「おっと、これは失言だったかな?」

 そう言って、皆川は顔いっぱいに笑みを浮かべた。
 ふたりがかなり飲兵衛であることを懸念していた紅は、幼い頃から「飲みすぎると身体に悪いから、ほどほどに」と事あるごとに釘を刺していたのだ。それを思い出しているのだろう。

「時々、おじいちゃんがベロベロになって帰ってくることがあったから、その都度俺はお酒はもうやめてって言ってたのに。……俺に隠れて飲んでたのがやらしいな」
「おやおや。いかんいかん、あの世で佐和七に余計なことを言うなと怒られそうだ」

 ほっほっほとまったく堪えていなさそうな笑いを飛ばして、さながら息子や孫にするように、もう一度紅の頭をぐしゃりと撫で回した。
 紅はその手に任せて、身体から力を抜く。

「紅。……佐和七が亡くなってから今まで、どこにいたんだ?」

 それは、咎めるような声ではなかった。純粋に、我が子を心配するようなもの。付き合いの長さからそれが分かり、紅は黙って俯いた。

「お前がいなくなったと知って、気が気ではなかったよ。私はこれから、佐和七の代わりとして紅を守ってやろうと思っていた矢先のことだったから……」
「……」
「だから一昨日、お前が来た時はびっくりした」

 紅は黙ったまま、皆川の言葉を聞いている。

「今、あの患者……片岡君といったかな、彼のところにいるのかい?」
「……うん」

 ようやく、紅は彼の問いかけに応えた。フロアの先を見つめたまま、ぽつりと呟く。

「拾ってもらった」
「そうか。……無事でよかった」

 ふと、紅は皆川を見る。その視線を受けて首を傾げた彼に向け、紅はずっと気になっていたことを問いかけた。

    尚貴、助かるよね?」

 その必死な様相を見、皆川は笑い飛ばす。

「目が覚めたんだろう? なら、もう大丈夫だ。あとは雑菌を入れないようにしながら、傷が塞がるのを待つだけだ。じきに治るよ 」

 紅はまた、黙って視線をフロアの奥に戻す。その仕草が彼の安堵を示していたのだろう、心配いらないと諭すように頭を撫でられた。
 やはり、幼い頃からずっと成長を見られていると適わない。

「いつもの紅からは考えられない質問だなぁ」
「え?」
「普段の紅なら、今の問いの答えなんか容易に心得てるはずだ。意識が戻ったならもう大丈夫だよ、とかクールに言い放ってると思うけどなぁ?」
「……分かってるよ。分かってるけど……なんだろう、……自分でも分かんないんだ」

 主語がなく、一見しただけでは矛盾しているように思える言葉。けれども皆川はそのすべてを紅の意図そのままに解釈してくれたようだった。
 確かに、普段の紅ならばそんなことは問いかけないであろうほどに軽い質問。
 けれども不安で仕方がないのは、それが尚貴だからか。
 そんな紅を見ていた皆川は、心中を察したのか真面目な表情を象った。

「紅が佐和七以外のことでそんな顔をするとはなぁ……。    彼が好き?」

 紅は椅子のクッション部に片足を乗り上げる。片膝を両手で抱えて視線を落とした。

「……うん。大好き」

 その言葉は自分で口にしておいて、驚くほどすんなりと胸の中に落ちてきた。

「……あ」

 思わず、自分の胸元に触れてしまう。すかすかとして、女性と比べてまったく物足りない感触ではあったけれど、そこに確かに息衝く気持ちがあることに気が付いた。
 かぁっと顔が熱くなる。

「……う、ぁ、うぅ……」

 意味のない声を洩らして、紅はおもむろに椅子から立ち上がった。

「か、帰る」
「紅? おい、」

 背後から皆川の声が聞こえていたが、それを振り切り、真っ赤な顔を隠しつつ、その場を走り去る。
 勢い任せに飛び出したはいいが、このまま尚貴の病気へ帰るのもなんとなく、気まずいというか照れくさいというか。今は顔を合わせると変な言動を洩らしそうだった。
 あてもなく歩くのも悪くないと思ったが、下手な場所へ迷い込むのも本意ではない。

「…………」

     結局。

「あっ紅、おかえり」

 ここしかなかったのが悲しい。
 病室へ入ると、そこには先ほど出る時にはいなかった脩人も揃っていた。

「遅かったね。どこか行ってたの?」
「うん。散歩してた」

 漣の問いに答えつつ、尚貴のベッドの端に腰を降ろす。すると、尚貴がぐりぐりと頭を撫でやってきた。

「迷子んなってんのかと思ったぞ」

 普段の紅ならば「尚貴じゃあるまいし」と答えるところだが。

「ん……ここは、大丈夫」

 思わず洩らしたその一言に、尚貴はほんの少しだけ引っ掛かりを覚えたようだった。一瞬眉を顰めてくるものの、結局なにを言うこともしなかった。






 それからしばらく三人で過ごし、子供に対する帰宅の鐘が鳴る頃、脩人と漣が腰を上げる。

「じゃあ……そろそろ、俺たちは帰るね」
「おう。    脩人、オマエどうすんだ? 家に帰るか? 漣のところに行くか?」
「マンションに帰るよ。明日、学校だしさ」

 一昨日、紅が病院に泊まり込んだ日はさすがに漣のアパートに泊まらせてもらった、と脩人は白状する。そのうえで、脩人は紅のことが気になるようだった。

「紅はどうする? 今日、何時頃に帰ってくる?」

 聞けば、紅は昨日も面会時間ギリギリまで病院にいたらしい。今日もそのパターンでいいのか、と問うているのだろう。

「昨日と同じくらいかな」
「ん、分かった。んじゃ、メシ作っとくよ。病院出る頃、メールくれると助かる」
「了解した」

 連れだって病室を後にする脩人と漣を見送ると、ふたりと入れ違いにひとりの青年が現れる。
 会社で見るスーツとは違う、シャツにジャケットを羽織り、ジーパンというラフな出で立ちの時国だ。

「おう、時国」
「すんません、遅くなって。あ、今そこで瀬鴇さんと課長の息子さんに会いましたけど」
「ああ、今までここにいてな。帰るところだよ」
「あ、そなんスか。うわ、やっぱもうちょっと早く来ればよかったっすね」
「気にすんな。会ったってことは挨拶ぐらいしたんだろ? ならオッケーだよ」

 そう言ってもらえるとありがたい、と言いながら時国はパイプ椅子に腰を降ろす。ふたりの話が始まりそうだと察したのか、紅はふたたび病室を後にするべく立ち上がった。
 彼が来た    、ということは、仕事の話だろう。

「紅?」
「席外してる。三十分くらいしたら戻ってくるから」

 病室から紅が去り、時国とふたりきりになったところで、尚貴は早速口を開いた。

「漣からはまだ、なにも聞いてねえんだ。早速だけど仕事の話、してもいいか?」
「どうぞ。俺もそのつもりで来てますんで」

 正直なところ、聞くのは怖い。けれどもいつかは耳にしなければならないなら、今のうちにさっさと終わらせてしまったほうが後後気が楽だ。
 ゆえに、尚貴は下手に回りくどい言い方はせず、直球で尋ねた。

「俺は    クビか?」

 ところが、時国はニッと笑って見せる。

「だと思うでしょ? 普通は」
「は?」
「尾崎部長が、めっちゃ頑張ってくれたみたいですよ。んで、社長としても吝かじゃないってことで、取り敢えず課長は二か月半の謹慎。という名の療養休暇が与えられましたんで、ゆっくりケガ治してくださいな。あ、ちなみにそれだけじゃ他のお偉方にブー垂れられそうなんで、復職後は三か月間、給料二割カットだそうです」
「はぁ……? なんだそれ、俺ゼッテー切られると思ってたのに」
「ま、課長は営業のスーパースターみたいなもんですからね。でも、部長も無傷で済んでるワケじゃないらしいですよ。三か月減俸だとか。女房に小遣い減らされたら片岡のせいだ! 病院に押し掛けて飲み代請求してやる! とか笑ってましたけどね」

 時国の言葉が頭の中で本人の映像として蘇り、尚貴は苦笑した。確かに、職場復帰した暁には、多大な功労者として彼にも感謝しなければいけない。そのためには食事、飲み屋、どこがいいか考えておこう、と記憶の中に留めた。
 しかし、十中八九クビで終わりだと思っていた結果がこんなものになり、なんだか拍子抜けした気分だ。もちろんめでたいことであって、ありがたいことでもあるのだけれど。
 下手に構えていた力がすべて抜けていく感じだった。
 だが、続けて聞いた話、当然のごとく島田は懲戒免職。あんなことがあったものの、尚貴は少しだけ、彼を哀れに思った。まあ、自業自得ではあるのだけれど。

「んで、課長。俺からひとつ、聞いてもいいですか?」
「あん?」
    あの子が、佐和七大教授の秘蔵っ子さんっすよね?」

 あの子、というのが誰を指しているのかはすぐに分かった。

「ああ」
「こないだね、ちょっくら話したんですよ。したら……いや〜、大学教授が助手に欲しがるのも分かる気がしますね。俺、オイラーについてあんなに語れる相手に出会ったの、久しぶりですよ」
「オイラー?」
「レオンハルト=オイラー。知りません? 大数学者っすよ」
「知らねえよ」

 きっぱり、すっぱり切り捨てると、時国は至極残念そうな顔になる。

「ほらね。近年こんな人が多いから、久しく彼みたいな人に会ってスパークしちゃうんじゃないっすか。分かります? あ、この人オイラーについて超詳しい! って思った時の俺の感動」
「知るか。そろそろ紅が帰ってくるからもう用がねえなら帰れ。俺は数学なんか興味ねえんだよ」

 そういえば中学の頃、脩人も数学が苦手だと言っていた。決定的、全面的にそうだとは思わないが、そのあたりも遺伝するのだろうか。なんにせよ息子に申し訳ない。

「にしても……佐和七大教授にお子さんなんていたんスね。超初耳っすよ。そんな話、周りから一度も聞いたことなかったし、多分知らない人の方が多いんじゃないっすか?」
「いや、アイツは    

 言おうかどうか、迷った。
 彼のことを勝手に話してもいいのだろうか。紅はそのあたり、変な拘りはなさそうだけれども。

「悪い、なんでもねえ。ま、気になるなら本人に聞いてくれや」
「はあ……分かりました」

 要領をえないといった表情をしながらも、時国は深く追求してくることはない。この辺りが、彼の付き合い易いところだな、と思った。
 そして、病室の時計で時間を確認すると、立ち上がる。

「さてさて。そんでは、俺そろそろ帰ります。またちょくちょく来ますんで、しっかり養生してくださいね〜」
「あいよ。オマエもしっかりな」

 ベッドの上から時国を送り出し、尚貴は身体を倒した。ふかふかの枕に頭が沈んで、自然と深い息が洩れる。痛み止めが効いているのかほとんど痛みはなかったものの、傷の違和感は確かにあった。
 自然と手が背中に伸びる。今はガーゼや油紙、包帯に覆われて触れることはできないが、逆に、やはりあれは夢ではなかったのだと思い知ることになった。
 尚貴は再度、ふっと息を吐く。

「二か月……なにすっかなぁ」

 ふと呟いた頃、病室の扉が開いた。

「おう、お帰り」
「あの人、帰ったの?」
「ああ。オマエ、こないだ話したんだって? なんつったか数学者について語れたのなんのって言ってたぞ。また話したいって」
「ああ……オイラーのこと?」
「そう、それそれ」

 紅は納得したように頷くと、今まで代わる代わる人が腰かけていたパイプ椅子に座った。そうしてベッドに突っ伏し、ふうっと大きな深呼吸をする。
 なんだかそんな仕草は見たことがなくて、思わず尚貴はなだめるように彼の頭を撫でていた。
 そんな表情をひとつひとつ見るたびに、彼に対する想いが深くなっていく。ああ、もう可愛くて仕方がないと今すぐにでも抱き締めたくなった。

「どうした?」
「……」

 紅は黙って尚貴の手にされるままになっている。
 病室に静謐な時間が落ちて少し経った頃、ようやく彼が口を開いた。

「……あのさ、尚貴。実は……」
「ん?」

 そして    、驚くべき言葉を聞くことになる。

「……この病院、……俺が捨てられてたところなんだ」

 一瞬、尚貴はわが耳を疑う。

「……なんだって?」
「だから、俺は赤ん坊の頃、この病院の従業員通用口に置き去りにされてたの」
「マジか?」
「こんなつまらないことで、嘘なんか吐かない」

 加えて、彼にとってその話題は極めてデリケート、あるいは神経に障るもののはずだ。確かに紅の言う通り、この話題で嘘を吐くとは思えなかった。
 なにより、嘘を吐く意味がない。
 だから、紅の言うことは真実なのだろう。
 そうか、だから「ここは大丈夫」なのか。

「ここの院長先生、おじいちゃんとすごく仲が良くて。俺も小さい頃から、おじいちゃんと一緒に何度もここに来て遊んでたんだ。……院長先生は、俺にとってまた違う、おじいちゃん、おじさんみたいな人」
「……そうだったのか」
    ……」

 紅はふと、顔を上げて窓の外を見やった。沈みかけている太陽が放つ光と、空のグラデーションはなんともいえない神々しさを孕んでいる。

「……あの日も、こんな感じの夕焼けだったな」
「あの日?」
「……おじいちゃんの、最後の日」

 尚貴も倣って外へと視線を投げる。

「おじいちゃん、……家で亡くなったんだ」
「家で?」

 紅は黙って頷いた。

「おじいちゃんの部屋、ベッドの隣に窓があって    、あの日もふと外見たら、こんな感じの夕焼けだったんだ」
「へえ……」
「テレビでは心不全って言われてるけど、……本当はね」

 そして、彼は静かな口調でメディアに知らされざる真実を話し出す。

    癌だったんだ」
「癌?」
「うん。元は、肺癌だった。でも、それが転移して……もう、駄目だったんだ」
「どうして、心不全なんて発表されたんだ?」
「それが、おじいちゃんの希望だったから。……詳しい理由は、聞かせてくれなかったけど」

 紅はベッドに視線を戻すと、わにわにとなにかを探すように手を彷徨わせ始めた。やがて、自分の頭に置かれている尚貴の手を取り、握ったり指を絡ませたりして遊び出す。
 彼のしなやかな指の感触が、尚貴の中の情欲を呼び起こす。首の後ろがザワザワして、久しく感じていなかった他人の肉体を求め始めた。ああ、このままだとヤバイな、と思いながらも、その手を振り払うことができない。
 同時に、こんなことをするほど、彼に許されているのかと思ってしまう。
 しばらく、無言の時が流れた。
 やがて、ひとしきり遊んで満足したのか、それとも胸の中で渦巻くなにかに対して決心がついたからか、紅が顔を上げて尚貴を見上げてきた。

「……ねえ、尚貴」
「ん?」
「俺は    、おじいちゃんにとって、いい息子でいれたかな?」

 尚貴はその一言に、胸をわし掴まれる思いだった。
 ああ、本当に    、彼にとって佐和七宋之助は大切な相手だったのだと。今まで自分が思っていたよりも、ずっとずっと、大事な存在だったのだ。
 彼は彼なりに、必死だった。
 常に涼しい顔をしているから分からないと思われがちな、その本心を見た気がした。
 そんな一面を見て、もっともっと好きになる。もっと、彼という人間を知りたくなる。なんだか最近ずっとそれの繰り返しだ。

「オマエ、佐和七さんの最後に立ち会ったか?」
「うん。……おじいちゃん、笑ってた。癌で辛いはずなのに……全身痛くてたまらないはずなのに……紅はこれからひとりで大丈夫かな、おじいちゃん心配だなあって、……笑ってたんだよ」

 その、真紅の両目から涙が落ちた。
 おそらく彼の脳裏には、今まさしく、佐和七の最後が蘇っているのだろう。
 自分はその場に立ち会ってはいないから、目で見たわけではない。けれども彼の言葉を聞いて、その情景が描けるようだった。
 最後まで、紅の心配をしていたという佐和七。
 それが    、彼の問いに対する答えのすべてだろう。

「それだけ    

 愛されていたのだ。
 そう告げると、紅の赤い瞳が見開かれる。そんな彼の肩を抱き込み、柔らかな髪に口元を擦り寄せた。自宅で使っているシャンプーの仄かな香りに身体がリラックスするのを感じる。

「……なんか、尚貴と一緒にいると安心する」

 涙目のまま、かすかに笑みを浮かべた紅。
 彼がぽつりと呟いた言葉に、どうしようもなく胸が騒いだ。

「尚貴、    ……ありがとう」

 クールな癖してとてつもなく素直で、大切な相手に対しては限りなく深い愛情を抱く。
 彼の人間性を知って、前よりも、そして数分前よりもまた少し、尚貴の想いは強くなった。















−続く−

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